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まちと住まいの空間 第44回 江戸・東京の古道と坂道 永井荷風と徳川慶喜が行き来した坂――牛坂、金剛坂、今井坂(3/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2022/03/26

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江戸っ子のひとひねりから名のついた今井坂

慶喜の屋敷に沿って抜ける今井坂は、新坂とも呼ばれていた。

『御府内沿革図書』の「小日向小石川之図」、元禄年間(1681〜1704年)の絵地図には、小浜藩4代藩主「酒井靭負佐」忠囿(ただその、1671〜1706年、雅楽頭酒井家別家、酒井忠利が初代当主)の1万坪以上もある屋敷があった。


江戸時代の今井坂とその周辺の変化 『御府内沿革図書』より作成
左:天保元(1830)年/中央:正徳5(1715)年から享保元(1716)年/右:元禄年中(1688〜1704年)

その後、正徳5(1715)年から享保元(1716)年にかけて道が通され、敷地が幾つかに分割する。はじめは新しくできた坂道から「新坂」と呼ばれた。慶喜が手に入れた神田上水に近い3000坪の土地は、江戸後期に大久保出雲守教孝(1787〜1860年)、大久保長門守教義(1825〜85年)と代を重ね、明治に入ってからも屋敷を維持する。

大久保家の屋敷北側にある坂道は、後に新坂から今井坂に名を変えた。


今井坂、坂の先に国際仏教学大学院大学が右手に見える(2020年撮影)

享保17(1732)年に菊岡沾凉(1680〜1747年)が刊行した地誌『江戸砂子』において、沾凉は「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜と名づけられた大木があった」と記されている。

坂上は見事な桜の大木が目印だった。『平家物語』の「木曾殿最期」の段では、木曽義仲と今井四郎兼平の壮絶な最後をあたかも散り行く桜に見立て、その清さを描く。今井四郎兼平の墓は木曽義仲と共に桜の名所である徳音寺に眠る。このように見事な桜の木を江戸でも「兼平桜」と呼んでいたのだろうか。

『御府内沿革図書』の天保元(1830)年の絵地図には、坂を上がり左に曲がった600坪ほどの土地に「蜂谷七兵衛」の名が記してある。菊岡沾凉が見た今井坂の光景は、道がつくられてから10年ほどの月日が経ったころだった。屋敷の主は同じく蜂屋家が維持したが、代替わりしていた。

坂名が「兼平坂」ではあまりにも江戸っ子らしい洒落っ気がない。

一見平凡そうだが、さらにひとひねりして「今井坂」としたところは江戸っ子の思いつきの面白さだろう。今では坂と記憶としての「今井四郎兼平」の名が残り、その屋敷にある見事な桜の大木を目にした菊岡沾凉の思いが文字となって脈々と生き続けるだけだ。だが、知識を得て坂上に立つと、当時の光景が甦るようで、何とも言えない不思議さをこの坂を歩いて感じる。

小日向に移って半年後(明治35〈1902〉年6月3日)、公爵に叙せられた慶喜は徳川宗家から独立して新たに慶喜家を興す。すでに株の配当などの収入がかなりあり、慶喜は経済的にも宗家から自立できた。これは陰ながらの支援を惜しまない渋沢栄一の存在が大きい。

明治43(1910)年12月8日、七男・慶久に家督と爵位を譲り隠居した後だが、大正期における徳川慶久の株総資産は宗家当主の家達と比べ遜色がない。

樋口雄彦『第十六代徳川家達 その後の徳川家と近代日本』(祥伝社、2012年)によると、大正元(1912)年に有栖川宮威仁親王のヨーロッパ旅行の土産として、ベンツで知られるダイムラー社の自動車が慶喜に贈られた。慶喜は自転車から自動車に乗り変え、再び東京の街を巡る。自転車を乗り回し、坂の多い東京を体験していた慶喜は、自動車という新たな乗り物を得て、亡くなる間際まで、好奇心が衰えていなかった。

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⑧昭和初期の東京の風景と戦争への足音
⑨高度成長期の東京、オリンピックへ向けて
⑩東京の新たな街づくり、近代化への歩み
⑪江戸と昭和の高度成長期への変貌(『佃島』より)

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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