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まちと住まいの空間 第44回 江戸・東京の古道と坂道 永井荷風と徳川慶喜が行き来した坂――牛坂、金剛坂、今井坂(2/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2022/03/26

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金剛寺坂と永井荷風

小石川・目白台地の北西側は、神田川が台地を削り取った河岸段丘の崖面となる。金剛寺坂、今井坂は江戸時代からこの斜面を下るように通されていた。金剛寺坂は、小石川・目白台地から、神田上水沿いの水道通り(巻石通り)まで下る坂道である。


金剛坂(2020年撮影)

現在の金富小学校と竜閑寺の東側には広い境内を持つ禅寺の金剛寺がかつてあり、この寺の名が坂名となった。金剛寺は関東大震災後に中野区上高田四丁目に移り、この寺があったころの面影は現在ない。

金剛寺は相州波多野(現・神奈川県秦野市)の地で建長2(1250)年に創建した古寺である。その後、小日向郷金杉(現・文京区春日二丁目)に移転してきた。文明年間(1469〜86年)に太田道灌が一時衰退していた寺を再興し、江戸時代に入ってからもこの地にあり続ける。

金剛寺の本堂は、小石川・目白台地斜面のなかほどに位置し、神田上水沿いの水道通りに向け立派な参道が延びていた。境内の東側に隣接する坂道に本堂の正面が向けられていたわけではない。だが、この寺院以外に適当な坂名となる対象がなく、坂名が金剛坂に落ち着く。

金剛寺坂の東側、旧金富町45番地(現・春日2-20-25)は、『墨東綺譚』、『断腸亭日乗』などの作品で知られ、明治12(1879)年に生まれた小説家永井荷風(1879〜1959年)が少年時代を過ごした。


永井荷風の生誕地、道の左手奥がかつての永井邸(2020年撮影)

住まいは、坂の途中から東側に細い道を入った左側斜面上の土地である。明治26(1893)年飯田町に住まいを移すまでの約13年間、この地で暮らした(その間1年ほど麹町の官舎へ)。

明治19(1886)年になると、神田川が近くを流れる黒田小学校(旧第五中学校、現・文京総合福祉センター、黒田小学校は昭和20年廃校、文京区小日向二丁目16)に荷風は入学し、金剛寺坂を下りて通学する。黒田小学校は4年で卒業し、次に台地上にある旧竹早町の師範学校附属小学校(現・東京学芸大学付属小学校、文京区小石川四丁目3)に転校した。今度は金剛寺坂を上がることになる。金剛寺坂は荷風にとって通い慣れた坂道だった。

自伝的短編小説『狐』(1910年作)では、荷風が子供の頃の思い出を書く。

「旧幕の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売り物になっていたのをば、其の頃私の父は三軒ほど一まとめに買ひ占め、古びた庭園の木立をそのままに広い邸宅を新築した」

これは明治8・9(1875・76)年ころの話である。

明治天皇に徳川将軍慶喜が江戸城を明け渡した後、徳川家に仕えた旧幕臣たちは住んでいた屋敷を維持することが難しく、手放した。その土地を明治新政府に勤める荷風の父親が手に入れた。明治16(1883)年の『参謀本部陸軍部測量局5000分の1東京図原図』(国土地理院蔵)の地図をもとに作成した地形図は、永井荷風が4歳くらいになっていた時の屋敷位置を示す。


明治10年代の坂道と地形、『参謀本部陸軍部測量局5000分の1東京図原図』より作成 

荷風の住まう屋敷3軒を合わせた南側斜面の土地は、500坪以上となり、江戸時代の大身旗本クラス(千石以上)の屋敷規模に相当した。

荷風の父が買った土地は、宝永年間(1673〜81年)まで御鷹匠同心大縄地(組屋敷)だった。

元禄以降は複数の旗本屋敷となり、その後はほとんど区画を変えていない。手に入れた3軒の旗本屋敷のうち、斜面下にある道に面した土地は代々河合家が屋敷を守り続けており、落ち着いた雰囲気の環境が維持された。

慶喜は明治34(1901)年から今井坂の屋敷に住まう。金剛坂と今井坂は隣り合った坂である。もと自宅近くを時々散歩していた荷風であり、2人はどこかで偶然すれ違っても不思議ではない。

サイクリングを楽しんだ慶喜の東京生活

徳川15代将軍として江戸城を明け渡し、江戸幕府を崩壊させた汚名を一身に受け、静岡での長い謹慎生活を続けてきた慶喜。明治30(1897)年11月には静岡から東京に移る。

それからの慶喜は、呪縛が解けたように好転に向かう。

最初に手に入れた屋敷は、後に巣鴨駅となる近く(現・巣鴨一丁目26〜33)。3000坪の敷地に建坪400坪の屋敷が建てられていた。越後新発田藩最後の藩主だった溝口直正が住まいとしていた邸宅地である。以前の持ち主の直正は、赤坂氷川に転居した。

慶喜の同母兄・徳川慶篤(1832〜68年、水戸藩10代藩主)が有栖川宮幟仁親王の子・幡子女王(線姫、1835〜56年)を正室に迎えたことから、東京移住後は皇室との関係を深めた。有栖川宮威仁親王(1862〜1912年)の仲介により、早くも明治31(1898)年3月2日に皇居に参内し、明治天皇に拝謁。皇太子だった嘉仁親王(後の大正天皇)とも親交を深めた。

家近良樹『その後の慶喜 大正まで生きた将軍』(講談社〈講談社選書メチエ320〉、2005年)によると、慶喜は自邸の巣鴨から自転車に乗り、皇太子嘉仁親王が居る東宮御所(現・港区元赤坂二丁目)、千駄ヶ谷(現・渋谷区代々木二丁目)にある徳川宗家(16代徳川家当主徳川家達)の邸宅までサイクリングを楽しんだという。直線距離にしていずれも6〜7㎞ほど。

また、銀座は慶喜のお気に入りの場所となり、自転車でショッピングによく出かけた。このころの銀座は煉瓦建築に設けた列柱を利用したショーウィンドーが連続して並び、現在のウィンドーショッピングのような「街区鑑賞」(現在の銀ブラ)が行われはじめる。静岡時代とは異なるハイカラな都市風景を堪能した。60歳を過ぎていたが、抑圧されてきた環境を振り払うように、自転車に乗った慶喜は鉄道馬車を抜き去る勢いで風を切って走っていたのだろう。

東京の路面電車(市電)は明治36(1903)年から電化する。その後、次々と路線を拡大させた。明治30年代後半には、いたるところで道路の拡幅工事が行われ、気軽に自転車を乗り回す環境ではなくなってしまった。

明治30年に手に入れた巣鴨の屋敷にも近代化の波が押し寄せた。

日本鉄道豊島線(現・JR山の手線)巣鴨駅(開業は1903年4月1日)の建設工事が巣鴨の慶喜邸前で始まり、騒音や人の出入りが激しくなる。それを嫌がった慶喜は、明治34(1901)年12月に小石川区小日向第六天町(現・文京区春日二丁目)の高台、今井坂の西側にある敷地3000坪の屋敷へと転居した。

慶喜の新たな屋敷は、現在の国際仏教学大学院大学の敷地にあたる。慶喜は新しもの好きだが、様々な屈辱に絶えながらもお殿様の血が流れ続け、大衆化とは無縁の人生観が慶喜にあった。

慶喜が終の住処とした土地は、小田原藩大久保家宗家の支藩、相模荻野山中藩大久保家下屋敷(1万3000石、3111坪)跡だった。敷地の規模は巣鴨とほとんど変わらない。だが、明治16(1883)年と明治42(1909)年の地図を比べると、建坪は1000坪となり、2.5倍の広さに拡大した。慶喜の資産が目に見えて増えた証であろう。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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