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まちと住まいの空間 第43回 江戸・東京の古道と坂道 森鴎外の住まいがあった団子坂をめぐる――三崎坂上からから~藍染川(1/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2022/01/21

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太古の時代の自然の猛威と人間の営みを感じる

上野台地から、藍染川の流れていた谷へ下る坂道が幾つかある。

その一つが「三崎坂(さんさきざか)」だ。「三崎」という名は、高台側から三つの「崎(みさき)」が突き出して向き合っていたことから付けられ、坂名ともなった。ただ、ここでは海に突き出た「岬(みさき)」をイメージしないほうがよい。はっきりとした台地の突き出しは見受けられない。このあたりの旧石神井川(藍染川)は大きく蛇行しながら下っており、3つの特徴的な砂州が川に突き出す風景だった。


上野台地から見た三崎坂/東京都台東区谷中4-4あたり(2020年撮影)

三崎坂の坂上に立つと、川によって台地をえぐられた谷の深さがよく分かる。太古の時代から大量の水が流れ、台地を削り取った壮大な痕跡に圧倒される。自然の猛威が鎮まった後の世界に、やっと人間の歴史が営まれるようになったと実感する。

三崎坂下の一番低い場所は、かつて藍染川が流れていた跡である。交差点を南(左)に進むと、「へび道」と呼ばれる曲がりくねった道となる。蛇行する藍染川の流路が埋め立てられ、そのまま道路となり現在に至った姿だ。さらに下流は江戸時代に開発が進み、下級武家地や町人地として土地が整備され真直ぐの道となる。川は道に沿いいく筋かに分かれ、不忍池に流れ込んだ。


江戸後期の藍染川沿いの土地利用

明治に入ったころから、この川筋には豊富な水量を求め、下級武家屋敷跡に染物屋が店を構えはじめた。川で染めた布を洗う光景も見られ、川の名となる。藍染川は、市街化が進むなか、頻繁に洪水を起こすようになり、大正12(1923)年の関東大震災後には暗渠となった。

染物屋が集まるほど豊富な水量だった藍染川の水源は、巣鴨の染井霊園あたりとされる。さらに時代を遡れば、藍染川の上流は石神井川が上野台地に突きあたり南下していた時代を経ている。石神井川は、現在のように王子あたりから隅田川上流に流れ出ていなかった。途中藍染川の水源と合流し、藍染川、不忍池と下り、最後日比谷入江に至る。これは徳川家康が江戸に入る以前のことである。

縄文時代から人の営みがあった場所

藍染川跡の道と交わる交差点をさらにまっすぐ進むと、不忍通りと交差(団子坂下信号)する。その先の上り坂が団子坂。『江戸名所図会』の「三崎法住寺」と題した挿絵では、藍染川を「境川」の川名で記し、三崎坂下の低地は田園が広がるのどかな風景として描写された。


江戸時代「境川」呼ばれた藍染川と周辺ののどかな田園風景、「三崎法住寺」『江戸名所図会』より

挿絵に描かれた19世紀はじめころの風景は絵の右下が水田だが、後の幕末期には旗本、御家人の屋敷として開発される。いつの時代も似たようなもので、田んぼを潰した宅地は強い雨が降ると、すぐに水が上がる。あまりよい環境ではなかった。

この挿絵の視点場は、大名庭園の面影が残る現在の須藤公園内の斜面上あたり。

橋の右側の川が現在のへび道、中央の大きな寺院が法住寺(法受寺)である。正暦3(992)年恵心僧都によって下尾久(現・荒川区)に創建され、その後この谷中の地に移ってきた。法住寺は、関東大震災で被災し、昭和10(1935)年には浅草にあった安養寺と合併移転し、現在の法受寺(現・足立区東伊興町四丁目)となる。橋から道を左に行くと下ってきた三崎坂、右に行くとこれから上る団子坂である。橋の脇には弁天不動地蔵を描く。寛永期(1624〜44年)、上野台地側と本郷台地側との行き来は三崎坂と団子坂を結ぶこの道だけだった。

斜面上の台地は、多くの貝塚や居住跡が発見されており、縄文時代からの連続した営みの場となる。

例えば、上野台地には領玄寺境内(現・台東区谷中4丁目)、天王寺墓地(現・台東区谷中7丁目)、道灌山(日暮里諏方神社周辺、現・西日暮里3丁目)などで縄文遺蹟が発掘されている。本郷台地側は、湯島切り通し(現・台東区湯島4丁目)、旧駒込神明町(現・本駒込5丁目)、動坂上の駒込病院(現・文京区本駒込3丁目)が思いつく。

縄文時代の貝塚があったエリアからは、より新しい時代の土器である弥生式土器も本郷台地で最初に発見された。その周辺の低地は、後に漁労から、農耕を中心とする文化が育まれていく。永く住み続けられる、人間にとって最適な住環境だった。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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