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まちと住まいの空間 第42回  江戸・東京の古道と坂道 西日暮里駅から行く上野台地にある3つの坂道(2/2ページ)

岡本哲志岡本哲志

2021/11/11

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「富士見坂」――歴史の移り変わりとともに消えていった別名の「花見坂」

諏訪台通りを隔てた浄光寺の向かいには、南西に下る坂がある。

この坂道を「富士見坂」と呼ぶ。平成25(2013)年に坂下の西側にマンションが建設され、坂上から富士山の姿を眺めることができない。それまでは、坂上から実際に富士山が見える数少ない坂の一つだった。


写真/真直ぐな坂道の富士見坂(2017年撮影)

富士見坂は別名として「花見坂」の名が付けられていた。これは江戸時代、現在の富士見坂の北側の斜面地に位置した日蓮宗の妙隆寺と修性院、臨済宗妙心寺派の青雲寺の3寺が見事な庭園をつくりあげたことから、花見の名所となり、それら3寺が花見寺と呼ばれ、坂の名にもなった。

修性院(1573年創建)が寛文3(1663)年、妙隆寺(創建不明)が元禄7(1694)年、現在の富士見坂北側に移転してきた。青雲寺(創建不明)も宝暦年間(1751〜63年)には現在地に来た。このころ、3寺を合わせた広大な斜面地は桜やツツジなどが一面に植えられた庭園となっており、広重が描いた『名所江戸百景』の「日暮里寺院の林泉」と題した絵となる。


広重「日暮里寺院の林泉」『名所江戸百景』 出典/国立国会図書館デジタルアーカイブ

妙隆寺と修性院のどちらが最初に庭園を設けたかは定まっていないが、ほぼ時期を同じくする。修性院は宝暦6(1756)年に京都の庭師・岡扇計を呼び寄せ、気を吐いた。一方、青雲寺も負けじと、庭園に多くの諸堂を置き、回遊しながら庭園を楽しませた。このあたりが花見の名所になるとともに、妙隆寺の布袋様(現在は修性院にある)、青雲寺の恵比寿様が祀られ、江戸で最も古いとされる谷中七福神詣(享和年間〈1801〜04年〉)が庭園とセットになり人気を高める。

江戸時代の富士見坂とその周辺は、現在と比べずいぶんと様子が異なる。

境界が定まった真っ直ぐな一本の坂道ではなく、花見をする園路として回遊できるように巡っていた(絵3参照)。挿絵から富士見坂らしき坂道を探すと、妙隆寺の境内を抜けて山門から台地下に延び公道に出る坂がそれにあたる。他にもこの坂を含め5本の坂が確認できる。

現在は、南泉寺に隣接して法光寺という寺がある。この寺は慶安3(1650)年に現在の港区赤坂で創建した寺だ。江戸時代後期、その境内地が御用地となり、同じ幕府用地であった津の守坂沿い(現・新宿区四谷坂町)に移転し、明地となっていた一部を寺地として賜る。津の守坂を挟んだ向かいは美濃高須藩松平家の上屋敷があった。

その後、遅くとも明治後期には、現在地の日暮里富士見坂下へ移転してきた。『江戸名所図会』の挿絵には寺が描かれていないが、南泉寺の北側斜面上にあたる。寺が移転したころに、蛇行して下る坂道も現在のような真っ直ぐに下る坂道となる。その時、坂から富士山がよく見え、富士見坂の名が定着した。

近代に変貌する花見寺の境内

江戸の名所として知られた富士見坂周辺は、明治に入ると廃仏毀釈の影響から、花見寺と呼ばれてきた3つの寺の運営が厳しさを増し、境内地も大きく変化した。

青雲寺は、文化4(1808)年に起きた火事により次第に衰退する。背後の諏訪台上にある庭園だった部分(現・西日暮里公園一帯)は、石碑などを崖下に残る境内地に移した後、再建のために加賀藩前田家に売却して明治7(1874)年に手放した。前田家はその土地を当主の墓地とし、前田家13代当主(加賀金沢藩12代藩主)前田斉泰(1811〜88年、正室は11代将軍家斉の娘、溶姫)以降前田家当主の墓所が設けられた。

この墓地は、前田家が明治維新以降も本郷の上屋敷を本邸として東京での暮らしを選択したひとつの証であろう。

前田家は、東京帝国大学の敷地拡張のために、居宅地としていた本郷邸を駒場の東京帝国大学農学部実習地4万坪と交換して明治中ごろに移る。明治33(1900)年に弱冠16歳で前田家16代当主を継いだ前田利為(としなり、1885〜1942年)は、駒場の敷地に昭和4(1929)年から5年の歳月をかけ、当時東洋一の大邸宅と評された洋館と和館を竣工させた。その後利為は、ボルネオ方面軍司令官として従軍中の昭和17(1942)年に不慮の死を遂げ、3代続いてきた当主の墓所に眠る。

駒場の前田邸は戦後連合軍に接収された。接収解除後の前田邸は公園とすることが決定し、昭和42(1967)年7月に東京都立駒場公園として生まれ変わった。4代続いた前田家当主の墓所は利為が最後となり、昭和47(1972)年には金沢に改葬された。その跡地は西日暮里公園となる。

妙隆寺は、経営難から関東大震災以降に廃寺に追い込まれ、現在は寺院の姿を見ることができない。ただし、檀家が隣接する修性院に移籍し、墓地は存続した。

明治に入り経営が行き詰まる妙隆寺は、崖下の本堂を貸し、庭園であった斜面地に本堂を移動させた。明け渡した本堂跡はドラマチックに変化する。

妙隆寺本堂跡には、創立して間もない東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大学〈国立市富士見台4-30-1〉、1902年創立)が明治38(1905)年にまず移転してきた。この学校が明治42(1909)年下谷区谷中三崎町(現・台東区谷中)に移り、翌年には福宝堂が日暮里花見寺撮影所を開設(1910年7月)する。活動写真(映画)の時代がはじまろうとするころ、近代映画の撮影所として映画制作の拠点となった。

明治44(1911)年に発行された「北豊島郡日暮里村・三河島村・尾久村全図 地番界入」(東京逓信管理局、逓信協会明治44年刊、人文社複製)を見ると、崖の斜面上にある妙隆寺とともに、崖下には「花見座」の名が記してある。これが日暮里花見寺撮影所である。花見坂にふさわしく、近代シネマの1ページを刻んだ。

しかし、福宝堂は間もなく横田商会、吉沢商店、M・パテー商会と合同で大正元(1912)年に日本活動写真株式会社(日活)を設立。翌年(1913年)には、日活向島撮影所が葛飾郡隅田村字堤外1412番地(現・墨田区堤通2-19-1)に開設し、日暮里花見寺撮影所は閉鎖した。本堂まで明け渡して訪れた華やかさだったが、長続きせず関東大震災後に廃寺となる。

3寺のなかでは修性院が最後まで庭園を維持した。だが、戦後になって背後の庭は第一日暮里小学校(現・荒川区西日暮里3丁目7-15)に明け渡す。この小学校の開校は、明治18(1885)年と古い。戦争中に校舎が焼失するまで、開校当初から諏訪台通り沿いの日暮里6番地(現・諏訪台ひろば館、西日暮里三丁目3)にあった。こうして花見寺の記憶が薄れ、富士山がよく見える富士見坂の名がメジャーとなり、花見坂の名が消え去る。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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