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まちと住まいの空間 第44回 江戸・東京の古道と坂道 永井荷風と徳川慶喜が行き来した坂――牛坂、金剛坂、今井坂

岡本哲志岡本哲志

2022/03/26

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白山通り西側には、徳川御三家の一つ、水戸徳川家の10万坪を超す広大な上屋敷があった。この地で最後の将軍・徳川慶喜(1837〜1913年)が生まれ育つ。水戸家の屋敷は、小石川・目白台地の先端部分にあり、南側が比較的平坦な低地となる。

現在も残る庭園は中屋敷の時代に整備され、古い時代の庭園様式が残る。

この庭園には神田川の水を関口から分水した神田上水が流れ込んでいた。屋敷を出た上水は、水道橋のあたりから掛樋(かけひ)により神田川を渡し、駿河台、大手町の武家地、神田、日本橋の町人地に水が送られた。庭園に引き込まれるまでの神田上水は、神田川の北側の少し高い部分、小石川・目白台地キワの微高地を通る。


江戸時代の小石川・目白台地の古道と坂道

明治期には、永井荷風(1879〜1959年)と徳川慶喜がこの高台の斜面を生活の場とした。

今回は、荷風と慶喜が過ごした小石川・目白台地の坂道を歩く。

小石川後楽園近くの牛天神社(北野神社)と牛坂

水戸徳川家の上屋敷は、明治維新後に庭園を残し、それを取り巻くようにして武器を製造・修理する東京砲兵工廠(砲兵工廠第一砲兵方面)の工場群が建ち並んだ。これらの建物は関東大震災で甚大な被害を受け、復興することなく小倉へ移転した。

昭和10(1935)年になると株式会社後楽園スタヂアムに土地が売却される。2年後の昭和12(1937)年には野球場、遊園地、競輪場などが設けられ、一大レジャーセンターに変貌した。現在の東京ドームと後楽園遊園地の原点となる。

小石川後楽園の北側には白山通りと交差する春日通りが、現在も東西に延び、礫川(れきせん)公園(礫川は小石川の別名。礫川は「こいしかわ」と読むこともある)中央大学理工学部などが通りの南側に位置する。

江戸時代はこれらの場所も水戸徳川家の屋敷内であり、屋敷西側の台地突端に位置する牛天(うしてん)神社(北野神社)が水戸徳川家上屋敷と隣接していた。小石川・目白台地斜面下の微高地を辿って流れる神田上水は、丁度牛天神社下付近から水戸徳川家上屋敷内に入る。御三家は江戸の水管理を担ってきたが、水戸徳川家は神田上水を管理した。

台地上にある牛天神社の北側、この段丘斜面を上がる坂道が牛坂である。古くは潮見坂・蠣殻坂・鮫干坂などと、海に関連する坂名でも呼ばれた。

縄文海進が進み海水位の高さがピークとなる縄文後期ころは、今の牛天神社下あたりまで海水が入り込む入江であり、その記憶が坂名となった。江戸城天守閣がまだそびえていた寛永期には、牛天神社の境内から勇壮な天守閣の光景が視界に入り、江戸城越しに内海(現・東京湾)も望めたであろう。

牛天神社は、元暦元(1184)年に源頼朝(1147〜99年)が創建したとされる。牛に乗った菅原道真(845〜903年)の御神託から、黒牛を守護神とする伝説が生まれた。

伝説となった黒牛は、各地の天神社で祀られており、牛天神社の境内には牛石と呼ばれる大石がある。撫でると願いが叶う「撫で岩(ねがい牛)」発祥の神社として知られる。源頼朝が現在の牛坂近くにある大きな石に腰掛け休息した時、牛に乗った菅原道真が夢に現れた。夢からさめると、それが牛に似た石から、「頼朝」と「牛石」「道真」が深く結びつくストーリーとなる。頼朝がこの石を祀り、牛天神を創健した。ただし、後年に創作された話も多い。

『江戸名所図会』「牛天神社 牛石 諏訪明神社」の挿絵を見ると、神社の場所は小石川・目白台地の突端にあり、西と南の2方向が高低差のある崖となる。眺望はかなりよく、境内の西側には茶屋がずらりと並び、牛込台地越しに富士山も眺められた。


「牛天神社 牛石 諏訪明神社」『江戸名所図会』より

牛天神社の別当寺は表参道下にあった竜門寺。だが、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となった。

寺の本堂が置かれていた場所は現在マンションとなり、表参道や石段の坂がない。細長いマンションの脇に張り付くように設けられた駐車場をよく見ると、参道の記憶がよみがえる形状で面白い。位置も、ほぼ同じである。牛天神社は、挿絵に「裏門」と記された参道だけが現在残り、表参道の役割を果たす。この裏門側の斜面に沿い、牛天神社を回り込むように牛坂が通る。

徳川家康の生母である於大(おだい)の方が菩提寺とした伝通院の参道は、南に延び春日通りを越え、さらに神田川の河岸段丘斜面につくられた安藤坂に至る。

この坂に沿った西側には御三家紀州徳川家の付家老安藤飛騨守直裕(1821〜85年、3万8800石)の上屋敷(屋敷規模3845坪)が江戸時代にあり、坂の名となった。江戸時代の安藤坂は、現在のように水道通り(巻石通り)まで真っ直ぐに下っておらず、途中左に折れ牛天神社の裏参道下、牛坂に行きあたる。


牛天神社参道とその先の安藤坂(2016年撮影)

一方、小石川・目白台地の斜面を西に行くと、最初に出合う坂道が金剛坂である。

金剛寺坂と永井荷風

小石川・目白台地の北西側は、神田川が台地を削り取った河岸段丘の崖面となる。金剛寺坂、今井坂は江戸時代からこの斜面を下るように通されていた。金剛寺坂は、小石川・目白台地から、神田上水沿いの水道通り(巻石通り)まで下る坂道である。


金剛坂(2020年撮影)

現在の金富小学校と竜閑寺の東側には広い境内を持つ禅寺の金剛寺がかつてあり、この寺の名が坂名となった。金剛寺は関東大震災後に中野区上高田四丁目に移り、この寺があったころの面影は現在ない。

金剛寺は相州波多野(現・神奈川県秦野市)の地で建長2(1250)年に創建した古寺である。その後、小日向郷金杉(現・文京区春日二丁目)に移転してきた。文明年間(1469〜86年)に太田道灌が一時衰退していた寺を再興し、江戸時代に入ってからもこの地にあり続ける。

金剛寺の本堂は、小石川・目白台地斜面のなかほどに位置し、神田上水沿いの水道通りに向け立派な参道が延びていた。境内の東側に隣接する坂道に本堂の正面が向けられていたわけではない。だが、この寺院以外に適当な坂名となる対象がなく、坂名が金剛坂に落ち着く。

金剛寺坂の東側、旧金富町45番地(現・春日2-20-25)は、『墨東綺譚』、『断腸亭日乗』などの作品で知られ、明治12(1879)年に生まれた小説家永井荷風(1879〜1959年)が少年時代を過ごした。


永井荷風の生誕地、道の左手奥がかつての永井邸(2020年撮影)

住まいは、坂の途中から東側に細い道を入った左側斜面上の土地である。明治26(1893)年飯田町に住まいを移すまでの約13年間、この地で暮らした(その間1年ほど麹町の官舎へ)。

明治19(1886)年になると、神田川が近くを流れる黒田小学校(旧第五中学校、現・文京総合福祉センター、黒田小学校は昭和20年廃校、文京区小日向二丁目16)に荷風は入学し、金剛寺坂を下りて通学する。黒田小学校は4年で卒業し、次に台地上にある旧竹早町の師範学校附属小学校(現・東京学芸大学付属小学校、文京区小石川四丁目3)に転校した。今度は金剛寺坂を上がることになる。金剛寺坂は荷風にとって通い慣れた坂道だった。

自伝的短編小説『狐』(1910年作)では、荷風が子供の頃の思い出を書く。

「旧幕の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売り物になっていたのをば、其の頃私の父は三軒ほど一まとめに買ひ占め、古びた庭園の木立をそのままに広い邸宅を新築した」

これは明治8・9(1875・76)年ころの話である。

明治天皇に徳川将軍慶喜が江戸城を明け渡した後、徳川家に仕えた旧幕臣たちは住んでいた屋敷を維持することが難しく、手放した。その土地を明治新政府に勤める荷風の父親が手に入れた。明治16(1883)年の『参謀本部陸軍部測量局5000分の1東京図原図』(国土地理院蔵)の地図をもとに作成した地形図は、永井荷風が4歳くらいになっていた時の屋敷位置を示す。


明治10年代の坂道と地形、『参謀本部陸軍部測量局5000分の1東京図原図』より作成 

荷風の住まう屋敷3軒を合わせた南側斜面の土地は、500坪以上となり、江戸時代の大身旗本クラス(千石以上)の屋敷規模に相当した。

荷風の父が買った土地は、宝永年間(1673〜81年)まで御鷹匠同心大縄地(組屋敷)だった。

元禄以降は複数の旗本屋敷となり、その後はほとんど区画を変えていない。手に入れた3軒の旗本屋敷のうち、斜面下にある道に面した土地は代々河合家が屋敷を守り続けており、落ち着いた雰囲気の環境が維持された。

慶喜は明治34(1901)年から今井坂の屋敷に住まう。金剛坂と今井坂は隣り合った坂である。もと自宅近くを時々散歩していた荷風であり、2人はどこかで偶然すれ違っても不思議ではない。

サイクリングを楽しんだ慶喜の東京生活

徳川15代将軍として江戸城を明け渡し、江戸幕府を崩壊させた汚名を一身に受け、静岡での長い謹慎生活を続けてきた慶喜。明治30(1897)年11月には静岡から東京に移る。

それからの慶喜は、呪縛が解けたように好転に向かう。

最初に手に入れた屋敷は、後に巣鴨駅となる近く(現・巣鴨一丁目26〜33)。3000坪の敷地に建坪400坪の屋敷が建てられていた。越後新発田藩最後の藩主だった溝口直正が住まいとしていた邸宅地である。以前の持ち主の直正は、赤坂氷川に転居した。

慶喜の同母兄・徳川慶篤(1832〜68年、水戸藩10代藩主)が有栖川宮幟仁親王の子・幡子女王(線姫、1835〜56年)を正室に迎えたことから、東京移住後は皇室との関係を深めた。有栖川宮威仁親王(1862〜1912年)の仲介により、早くも明治31(1898)年3月2日に皇居に参内し、明治天皇に拝謁。皇太子だった嘉仁親王(後の大正天皇)とも親交を深めた。

家近良樹『その後の慶喜 大正まで生きた将軍』(講談社〈講談社選書メチエ320〉、2005年)によると、慶喜は自邸の巣鴨から自転車に乗り、皇太子嘉仁親王が居る東宮御所(現・港区元赤坂二丁目)、千駄ヶ谷(現・渋谷区代々木二丁目)にある徳川宗家(16代徳川家当主徳川家達)の邸宅までサイクリングを楽しんだという。直線距離にしていずれも6〜7㎞ほど。

また、銀座は慶喜のお気に入りの場所となり、自転車でショッピングによく出かけた。このころの銀座は煉瓦建築に設けた列柱を利用したショーウィンドーが連続して並び、現在のウィンドーショッピングのような「街区鑑賞」(現在の銀ブラ)が行われはじめる。静岡時代とは異なるハイカラな都市風景を堪能した。60歳を過ぎていたが、抑圧されてきた環境を振り払うように、自転車に乗った慶喜は鉄道馬車を抜き去る勢いで風を切って走っていたのだろう。

東京の路面電車(市電)は明治36(1903)年から電化する。その後、次々と路線を拡大させた。明治30年代後半には、いたるところで道路の拡幅工事が行われ、気軽に自転車を乗り回す環境ではなくなってしまった。

明治30年に手に入れた巣鴨の屋敷にも近代化の波が押し寄せた。

日本鉄道豊島線(現・JR山の手線)巣鴨駅(開業は1903年4月1日)の建設工事が巣鴨の慶喜邸前で始まり、騒音や人の出入りが激しくなる。それを嫌がった慶喜は、明治34(1901)年12月に小石川区小日向第六天町(現・文京区春日二丁目)の高台、今井坂の西側にある敷地3000坪の屋敷へと転居した。

慶喜の新たな屋敷は、現在の国際仏教学大学院大学の敷地にあたる。慶喜は新しもの好きだが、様々な屈辱に絶えながらもお殿様の血が流れ続け、大衆化とは無縁の人生観が慶喜にあった。

慶喜が終の住処とした土地は、小田原藩大久保家宗家の支藩、相模荻野山中藩大久保家下屋敷(1万3000石、3111坪)跡だった。敷地の規模は巣鴨とほとんど変わらない。だが、明治16(1883)年と明治42(1909)年の地図を比べると、建坪は1000坪となり、2.5倍の広さに拡大した。慶喜の資産が目に見えて増えた証であろう。

江戸っ子のひとひねりから名のついた今井坂

慶喜の屋敷に沿って抜ける今井坂は、新坂とも呼ばれていた。

『御府内沿革図書』の「小日向小石川之図」、元禄年間(1681〜1704年)の絵地図には、小浜藩4代藩主「酒井靭負佐」忠囿(ただその、1671〜1706年、雅楽頭酒井家別家、酒井忠利が初代当主)の1万坪以上もある屋敷があった。


江戸時代の今井坂とその周辺の変化 『御府内沿革図書』より作成
左:天保元(1830)年/中央:正徳5(1715)年から享保元(1716)年/右:元禄年中(1688〜1704年)

その後、正徳5(1715)年から享保元(1716)年にかけて道が通され、敷地が幾つかに分割する。はじめは新しくできた坂道から「新坂」と呼ばれた。慶喜が手に入れた神田上水に近い3000坪の土地は、江戸後期に大久保出雲守教孝(1787〜1860年)、大久保長門守教義(1825〜85年)と代を重ね、明治に入ってからも屋敷を維持する。

大久保家の屋敷北側にある坂道は、後に新坂から今井坂に名を変えた。


今井坂、坂の先に国際仏教学大学院大学が右手に見える(2020年撮影)

享保17(1732)年に菊岡沾凉(1680〜1747年)が刊行した地誌『江戸砂子』において、沾凉は「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜と名づけられた大木があった」と記されている。

坂上は見事な桜の大木が目印だった。『平家物語』の「木曾殿最期」の段では、木曽義仲と今井四郎兼平の壮絶な最後をあたかも散り行く桜に見立て、その清さを描く。今井四郎兼平の墓は木曽義仲と共に桜の名所である徳音寺に眠る。このように見事な桜の木を江戸でも「兼平桜」と呼んでいたのだろうか。

『御府内沿革図書』の天保元(1830)年の絵地図には、坂を上がり左に曲がった600坪ほどの土地に「蜂谷七兵衛」の名が記してある。菊岡沾凉が見た今井坂の光景は、道がつくられてから10年ほどの月日が経ったころだった。屋敷の主は同じく蜂屋家が維持したが、代替わりしていた。

坂名が「兼平坂」ではあまりにも江戸っ子らしい洒落っ気がない。

一見平凡そうだが、さらにひとひねりして「今井坂」としたところは江戸っ子の思いつきの面白さだろう。今では坂と記憶としての「今井四郎兼平」の名が残り、その屋敷にある見事な桜の大木を目にした菊岡沾凉の思いが文字となって脈々と生き続けるだけだ。だが、知識を得て坂上に立つと、当時の光景が甦るようで、何とも言えない不思議さをこの坂を歩いて感じる。

小日向に移って半年後(明治35〈1902〉年6月3日)、公爵に叙せられた慶喜は徳川宗家から独立して新たに慶喜家を興す。すでに株の配当などの収入がかなりあり、慶喜は経済的にも宗家から自立できた。これは陰ながらの支援を惜しまない渋沢栄一の存在が大きい。

明治43(1910)年12月8日、七男・慶久に家督と爵位を譲り隠居した後だが、大正期における徳川慶久の株総資産は宗家当主の家達と比べ遜色がない。

樋口雄彦『第十六代徳川家達 その後の徳川家と近代日本』(祥伝社、2012年)によると、大正元(1912)年に有栖川宮威仁親王のヨーロッパ旅行の土産として、ベンツで知られるダイムラー社の自動車が慶喜に贈られた。慶喜は自転車から自動車に乗り変え、再び東京の街を巡る。自転車を乗り回し、坂の多い東京を体験していた慶喜は、自動車という新たな乗り物を得て、亡くなる間際まで、好奇心が衰えていなかった。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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