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まちと住まいの空間 第41回 江戸~明治へとタイムスリップできる上野の坂道(4/4ページ)

岡本哲志岡本哲志

2021/10/21

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清水坂のルート変更と新・旧2つの清水門

清水坂の右側はコンクリートの高い擁壁である。切り通したような坂の形状は自然の地形に即したものではない。現在、上野高校の敷地である擁壁の上は、江戸時代まで護国院の境内地だった。


現在の護国院(2016年撮影)

天海大僧正により東叡山寛永寺が開かれた時、護国院の本坊が寛永2(1625)年に創建され、寛永寺最初の子院となる。春日仏師の作とされる釈迦、その両脇の文珠と普賢を加えた三尊像を寛永7(1630)年に護国院の本尊としたことから、安置する釈迦堂が建立された。護国院は、この釈迦堂を管理する別当寺でもある。

最初の護国院の場所は、寛永寺本坊(現・東京国立博物館)の北側、4代将軍家綱(1641〜80年)が眠る徳川家霊廟(一之御霊屋)にあった(図1参照)。護国院の釈迦堂は壮大なもので、根本中堂が建てられるまでは寛永寺において最大規模の建物だったという。その後、隣接する土地(後の二之御霊屋となる場所)に移る。

5代将軍綱吉(1646〜1709年)が宝永6(1709)年に亡くなり、二之御霊屋が整備されることになると、護国院は再び移転を余儀なくされ、現在地に落ち着く。その敷地は都立上野高校、芸大美術学部(敷地の半分ほど)を含めた広大なものだった。しかし、現在は5分の1にまで敷地が縮小している。

「清水坂(しみずざか)」の名は、弘法大師ゆかりの湧水が近くにあったことから名付けられたとされる。地形から推測すると、現在の上野動物園の北端あたりの斜面から湧水が出ていた。寛永寺境内に入る南の門が設けられた時、湧水にあやかり「清水門」となった(図2参照)。

なぜ「暗闇坂」といわれるようになったか

元禄2(1689)年ころまでは、水月ホテル鴎外荘の向かいあたりに清水門があった。安政3(1856)年の絵地図からは、清水門も、寛永寺に入る参道も消えている。ただし、同様の場所に水路が通されており、かつては水路に沿い清水門から寛永寺に入る参道が延びていたと想像される。いまいちど元禄2(1689)年の絵地図から清水門の位置を確認してみたい(図2参照)。

向かいに「イナリ」(清水稲荷)の文字がある。左に湾曲する古道を絵地図上で辿ると、もうひとつの門「新門」が記してある。後に、この新門が清水門と呼ばれるようになった。安政3年の絵地図にある清水門(新門)は、元禄2年の新門と比べ位置を変えていない。だが、新門(新清水門)と清水門(旧清水門)の間のエリアは道の線形を含め大きく変化した。

元禄2年の絵地図に描かれていた「イナリ」は、根本中堂が建立された元禄11(1698)年に浅草にある駒形堂の南方に移る。元禄から宝永(1688~1711年)にかけては、寛永寺の北西部分、谷中側の寛永寺の寺域が拡張した時期だった。元禄11年に起きた勅額火事と宝永6年の5代将軍綱吉の御廟(常憲院廟)建設が大いに影響する。寛永寺北側の広大な土地が御廟となり、寛永寺の子院が再編されたことで、清水門周辺が変化した。宝永6(1709)年には護国院が松平伊豆守の屋敷に隣接していた法恩寺など既存寺院を取り込めて広大な境内地とする。

この時に、旧来の清水坂が護国院の境内地となったことから、護国院と松平伊豆守の屋敷の境界に新しい道が通された。緩やかにカーブしながら上がる古くからの坂が台地を切通すような急坂となり、清水坂の両側にある土地の形状も変化する。護国院の山門は新しい清水門側に設けられた。境内地はその坂に沿いフラットな土地に造成され、坂の側面が擁壁となる。護国院の墓地と三河豊橋藩主大河内家の屋敷の木立が鬱蒼とした薄暗い空間をつくりだし、暗闇坂と呼ばれるようになった。「清水」のイメージが薄れ、坂の形状が坂名となったようだ。現在は再び清水坂となっている。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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