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三淵家――大河ドラマ『麒麟がくる』でスポット? 知られざる一族の足跡(1/2ページ)

菊地浩之菊地浩之

2021/01/13

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藤英が義昭とともに立て籠もった二条城/©︎編集部

三淵藤英の生涯

大河ドラマ『麒麟がくる』では明智光秀を主人公に据えていることもあり、従来のドラマでは描かれてこなかった、比較的マイナーな人物も描かれている。三淵大和守藤英(みつぶち・やまとのかみ・ふじひで/谷原章介)もその一人である。

三淵家は代々足利家に仕え、藤英の父・三淵伊賀守晴員(いがのかみ・はるかず)は幕府申次衆(もうしつぎしゅう)だった。三代将軍・足利義満の末裔(まつえい)と称しているが、三淵藤英の父の名前が晴員だから、その先祖も「晴○」という名前にしておけば、間違いないという安易な発想で作られた偽系図である。三淵家は晴員―藤英―秋豪と、足利義晴―義藤(義輝)―義秋(義昭)から偏諱を受けているので、それ以前の先祖が「晴○」という名前であるはずがない。

藤英の異母弟は細川家の養子となり、細川兵部大輔藤孝(ほそかわ・ひょうぶのたいふ・ふじたか/眞島秀和)と名乗り、足利義昭の将軍擁立に多大な貢献をもたらした。その功で兄・藤英は伏見城、弟・藤孝は勝龍寺(しょうりゅうじ/青龍寺とも書く)城を与えられた。

ところが、義昭と織田信長の間に溝ができると、兄・藤英は義昭につき、弟・藤孝は信長についた。

天正元(1573)年、藤英は義昭とともに二条城に立て籠もるが、柴田勝家の降伏勧奨を受け容れて退城。毛利方に落ち延びる義昭には従わず、信長に転仕した。その後の詳細は不明だが、翌天正2(1574)年5月に伏見城は壊され、藤英は坂本城(明智光秀の居城)に預けられ、7月6日に切腹させられた。

なぜ切腹を命ぜられたかは定かではない。換言するなら、ドラマで幾らでも理由付けできるということだ。

弟・細川藤孝一族に助けられた子どもたち

藤英には少なくとも3人の子がいた。

長男・三淵弥四郎秋豪(あきひで/秋英とも書く)は父とともに坂本城で切腹した。年齢不詳だが、足利義昭がまだ義秋と名乗っていた永禄9~11(1566~1568)年に元服し、偏諱(かたいみな)を受けた可能性が高いので、1550年頃の生まれだろう。

次男・三淵伯耆守藤利(ほうきのかみ・ふじとし/光行ともいう)は父が切腹した時に数え年の2歳というから1573年生まれで、兄・秋豪とは二回りくらい歳が離れている。叔父・細川藤孝のもとで育てられ、関ケ原の合戦では叔父・細川藤孝(当時は号・幽斎)とともに田辺城に籠城し、叔父をよく助けた。その功が認められ、家康から1000石を賜り、子孫は旗本になった。

なお、藤利の妻は、従兄弟の細川忠興の側室・郡(こおり)氏の妹で、藤利の次男・郡源四郎藤正(ぐんしろう・ふじまさ)は細川家に仕え、子の郡夷則氏政(いそく・うじまさ)は2000石を賜って、子孫は代々藩の要職を勤めたという。

三男・朽木六兵衛昭貞(くちき・ろくべえ・あきさだ)は豊臣秀次に仕えた後、秀次自刃の後、細川忠興に仕えて3000石を賜った。主命により朽木姓を名乗るように指示されたという。実際は三淵以外の姓を名乗れと指示され、母方の姓を名乗ったと思われる(ただし、昭貞の母が朽木一族であったかは定かでない)。

江戸幕府が編纂した系図集『寛政重修諸家譜』によれば、昭貞の弟に朽木内匠昭知(たくみ・あきとも)、朽木内匠昭長(あきなが)が記されているが、父が死んだ時に次兄・藤利が数え年の2歳(満1歳)なのだから、3人も弟がいるのは不自然だろう。『三百藩家臣人名事典』によれば、昭知は昭貞の子で、「子孫は三千石で城代・中老・家老に就任し、代々細川家の重臣となる」という。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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