まちと住まいの空間 第41回 江戸~明治へとタイムスリップできる上野の坂道(3/4ページ)
岡本哲志
2021/10/21
もう1つの清水坂 (しみずざか)別名 暗闇坂を歩く
上田邸を通り過ぎた先は道が二叉に分かれる。
右に折れると、坂下から大きく左に湾曲する「清水坂(しみずざか)」と呼ばれる坂道となる。湾曲する坂の内側角にある煉瓦建築が坂の雰囲気を高める。
煉瓦建築が彩りを添える清水坂(2020年撮影)
この建物は明治23(1890)年に上野で開かれた博覧会(第3回内国勧業博覧会)で最初に走った路面電車を動かす発電所として建てられた。博覧会に持ち込まれた路面電車は、アメリカ(ブリル社)製の2両(500V、15HP、スプレーグ式電車、定員22名)を輸入したもので、450mを公開運転した。その後も、赤煉瓦の建物からは東京市街を巡る路面電車(市街鉄道)に電気を送り続けた。
清水坂をさらに上がると、左側は落ち着いた雰囲気の住宅地となる。この一帯は江戸時代に三河吉田藩の大河内松平家が2万坪近い広大な土地を下屋敷としていた。「知恵伊豆」で知られる、老中を務めた松平伊豆守信綱(1596〜1662年)が最初に賜った下屋敷である。敷地の形状を変化させながらも、江戸時代を通じて大河内松平家が土地を維持し続けた。
大河内松平家は、松平伊豆守信古(のぶひさ、1829~78年)が最後の三河吉田藩藩主だった。
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れてから、信古は幕府を見限り新政府軍に加わる。家名も「松平」から旧姓の「大河内」に復姓した。明治維新(1868年)が過ぎ、信古は谷中にあるこの下屋敷で明治21(1888)年に死去するまで住み続ける。ただし、明治に入ると屋敷内に新たな道路が通る。広大な土地は分割された。
図2/明治10年代の地形と土地利用、『参謀本部陸軍部測量局5000分の1東京図原図』国土地理院所蔵より作成
この道を入った西側には「久松邸」と明治17(1884)年の地図に記された大きな屋敷がある。このころは、久松町にあった旧桑名藩久松松平家の上屋敷がすでに町場化し、築地の下屋敷は海軍兵学校となっていたことから、本宅を移したようだ。久松邸の他には、もうひとつ大きな屋敷が南側にある。地図に名が記されていないが、ここが信古の屋敷と考えられる。
信古が死去した明治21(1888)年以降は、屋敷の土地が細かく分割され、宅地化した。清水坂の西側にある街区の一角を東京日日新聞の記者であり、ジャーナリスト、評論家として名の知れた円地与四松(1895〜1972年)が手に入れる。昭和5(1930)年に、与四松は上田萬年(1867〜1937年)の娘・文子(1905〜86年)と結婚し、清水坂沿いの谷中清水町(現・台東区池之端)を新居とした。周辺はまだ空地が多く見られた時代、ここで生活をはじめた小説家・円地文子が暮らしの中で日々目にした清水坂を小説『妖(よう)』で描く。
この記事を書いた人
岡本哲志都市建築研究所 主宰
岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。