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牧野知弘の「どうなる!? おらが日本]#3 バブル崩壊後の不動産と今後(2/6ページ)

牧野 知弘牧野 知弘

2018/04/20

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興味深いのが、当時実際に販売されていた物件が実名で登場し、販売価格と競争率も開示されていることだ。最初に彼らは横浜市泉区緑園で、当時三井不動産と相模鉄道が分譲した駅近のマンションを申し込む。価格は3800万円から4000万円台。彼らの予算では上限だが、そもそも抽選で当選できない。なぜなら競争率は200倍だからだ。

私もこの当時三井不動産に勤務していたが、たしかに人気のあるマンションの競争率が100倍から200倍になるのは珍しいことではなかった。「家の価格は毎月上がっていく」という社宅の住民たちの声を背に、彼らは相模鉄道沿線の大和や海老名などにも手を広げていくが、結局どこも買うことができず、最終的には神奈川県の西端、津久井湖近くの分譲地を購入してドラマは終わる。ドラマのエンディングは横浜の会社まで通勤2時間、早朝に原付バイクに跨った三上さんが最寄り駅まで出勤していく姿を美佐子さんが見送るという場面で終わるのだが、こうした光景自体、この時代ではごくあたりまえの住宅取得物語だったのだ。

平成バブルとも言われたこの現象を叩き潰したのが、日本銀行や政府であった。日銀は公定歩合を上げるだけでなく、不動産融資に関して総量規制を実施、銀行から企業などへの投資マネーの供給を絞り込んだ。政府は地価税を創設、また不動産取引においては国土法を設けて取引の内容や価格を届け出ることを義務付けた。

こうした人為的な地価の引き下げ効果はてきめんだった。1992年(平成4年)ごろから地価は下がり始め、不動産投資にのめり込んでいた多くの企業はマネーの供給源を失い、倒産が続出する。こうした企業は不動産投資を自らのバランスシートで行っていたために、バランスシートは肥大しきっており、金利上昇と不動産価格の急落に耐えられる構造にはなかったのだ。

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この記事を書いた人

株式会社オフィス・牧野、オラガ総研株式会社 代表取締役

1983年東京大学経済学部卒業。第一勧業銀行(現みずほ銀行)、ボストンコンサルティンググループを経て1989年三井不動産入社。数多くの不動産買収、開発、証券化業務を手がけたのち、三井不動産ホテルマネジメントに出向し経営企画、新規開発業務に従事する。2006年日本コマーシャル投資法人執行役員に就任しJ-REIT市場に上場。2009年オフィス・牧野設立、2015年オラガ総研設立、代表取締役に就任。著書に『なぜ、町の不動産屋はつぶれないのか』『空き家問題 ――1000万戸の衝撃』『インバウンドの衝撃』『民泊ビジネス』(いずれも祥伝社新書)、『実家の「空き家問題」をズバリ解決する本』(PHP研究所)、『2040年全ビジネスモデル消滅』(文春新書)、『マイホーム価値革命』(NHK出版新書)『街間格差』(中公新書ラクレ)等がある。テレビ、新聞等メディアに多数出演。

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