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まちと住まいの空間 第42回  江戸・東京の古道と坂道 西日暮里駅から行く上野台地にある3つの坂道

岡本哲志岡本哲志

2021/11/11

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『名所江戸百景』 出典/国立国会図書館デジタルアーカイブ

上野台地の北、江戸と変わらぬ位置にある「ひぐらし坂」

JRの西日暮里駅に降りたことがない人も多いのではないだろうか。

この駅は昭和46(1971)年開設の新しい駅である。日暮里駅から田端駅までの駅間は1.3km。地下鉄千代田線の駅が昭和44(1969)年に開業したことを受け、乗り継ぎ駅として新設された。そのために、日暮里駅から西日暮里駅まで500mと、山の手線では駅間隔が最も短い。しかも、改札を出ることなく、この駅をスルーしてしまう人も多い。

今回はこの西日暮里駅で下車し、「ひぐらし坂」「地蔵坂」「富士見坂」3つの坂道をこの目で確かめていこう。

改札を出た正面は、高架鉄道の線路と交差し、東西に抜ける道灌山通りとなる。北から南に延びる上野台地はこのあたりで幅が最も狭くなり、海抜も低く、道を通しやすかった。古くからここは上野台地を挟む東西両エリアの重要な交通路であり続ける。

現在の道灌山通りは道幅が広がり、通り北側の台地が切り取られ、急勾配の法面(崖地)に沿い台地に上がる坂道が新しく設けられた。これが「ひぐらし坂」と呼ばれている。道灌山通りの拡幅により、江戸時代に谷中から田端に通じていた道が遮断され、それをつなぐ新しい坂だ。

なんとも殺風景な坂だが、「ひぐらしの里」だったことから素敵な坂名となる。「ひぐらしの里」は『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』の挿絵に名所として登場する。


道灌山の「ひぐらしの里」 出典/『江戸名所図会』

ところで、挿絵に描かれている坂道はどこなのか。

挿絵は、見晴らしのいい道灌山の高台から虫の音を聴き、眼下に広がる田園の背後に月が上る風情を楽しむ光景が描かれている。地平から出る月から、台地下の田園風景は、上野台地東斜面下に広がる新堀村(現・西日暮里五丁目周辺)一帯であろう。

上野台地上を田端へ抜ける道の位置は、江戸時代から変わっていない。


図/江戸時代後期の土地利用と現在の地形

ただし、上野台地の斜面は鉄道線路数の拡大にともない削り取られ、古道の東側は急傾斜の法面が続く。しかも、現在のひぐらし坂を上がり、開成高校の運動場にさしかかるあたりまでの道は新しく、運動場の途中からやっと江戸時代の古道と重なる。

絵1の挿絵には、2人の女性と小さな子どもが坂道を上るシーンが加わる。この坂道は、台地上を田端に抜ける古道から道灌山に上る小道だった。現在は道灌山自体が宅地化されて失われ、挿絵に登場する坂道に出合えない。江戸時代は、この小さな坂が「ひぐらし坂」と呼ばれていたのかもしれない。

筑波山、日光山も望む花見と遠望が楽しめた「地蔵坂」

次に訪れたのは西日暮里駅南側に位置する諏方神社である。

諏方神社へは2つのルートがある。

ひとつは駅の西側にある諏訪台通りと名付けられた坂道を上がるルート。この坂道は、道灌山通りの拡幅で一部消えてしまった古道とかつてつながっており、谷中からひぐらしの里へ通じていた。

いまひとつは、駅東側にある現在「ルートにっぽり」と名付けられた商店街の通りを抜ける。この道を東南に進み、突き当たりを右に曲がると、その先が鉄道高架下の通路となる。通路の先には線路に沿う坂道があり、今回はこちらのルートを選択し、諏方神社まで行った。

鉄道高架下の通路は、鉄道線路の本数が増え、線路で遮断された台地と低地を結ぶ。その分暗く長い距離を歩く。上野駅を始発とした東北本線は上野と高崎の間が明治16(1883)年に開通し、古道を遮断するように線路が通された。だが、道のルートは変更しておらず、江戸時代から通されていた古道と手前半分近くがほぼ重なる。

江戸時代と同じ位置にある通路を抜けて左に折れ曲がると、線路と並行する道の先に階段状の急な坂があらわれる。これが現在の地蔵坂の姿である。


写真/急な階段の地蔵坂(2020年撮影)

『名所江戸百景』にある「日暮里諏訪の台」と題した絵は、坂を上る人たち、台地上に設けられた縁台に座り、花見と遠望の筑波山を重ねて楽しむ人たちを花の名所に描き込む。


広重「日暮里諏訪の台」『名所江戸百景』 出典/国立国会図書館デジタルアーカイブ

今では上野台地の斜面を削り線路の本数を増やしたことから、江戸時代のようにゆったりと蛇行した坂道ではなく、線路沿いに真っ直ぐ階段を上る。上がり切って右に折れ、階段をさらに上がった先が平坦な諏方神社境内となる。

諏方神社は元久2(1202)年、豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社から勧請し創建した古社である。後に太田道灌、徳川家康から厚い庇護を得て、霊験あらたかな神社空間が整い、今日まで維持されてきた。

この諏訪神社の境内北端の崖際に立つと、眼下に電車が通り過ぎ、その先はビルで埋め尽くされた光景が広がる。背後にあるはずの遠景はビルに阻まれて現在見えない。江戸時代は眺望のよい魅力的な風景が展開し、筑波山が眺められ、遠く日光山も視界に入った。

一方、諏方神社の南側には真言宗の浄光寺が隣接する。


写真/諏訪台通り、諏方神社、浄光寺(2020年撮影)

神仏分離令(1868年)の影響により独立するまでは、諏方神社を管理する別当寺も兼ねていた。天保7(1836)年に刊行された『江戸名所図会』の挿絵を見ると、浄光寺裏手には「御腰掛所」とわざわざ記され、斜面下の美しい田園風景を愛でる絶好の場が設けられていた。図会の解説では、浄光寺が眺望にすぐれ、特に雪景色がすばらしいと賞賛する。


諏方神社と浄光寺 「日暮里惣図其三」 出典/『江戸名所図会』

浄光寺は、眺望の良さに加え、江戸六地蔵のうち3番目の地蔵尊として参詣人を集めた。「地蔵坂」という坂名はこの地蔵尊に由来する。

最初の地蔵菩薩は、空無上人という僧の夢のお告げにより、元禄4 (1691) 年に建立された。現在の地蔵菩薩は文化10 (1813) 年の作で、寺の境内を入った左側にある。『江戸名所図会』「諏方台」の挿絵では、諏方神社の参道に面した場所に地蔵堂が建てられ、そのなかに地蔵尊が安置された光景を描く。

文化10年に作成された地蔵菩薩は現在も同じ像だが、地蔵堂は現在ない。明治初期の神仏分離により、浄光寺の境内にある地蔵尊は諏方神社と関係を断ち切るように参道に背を向けて立つ。明治維新という時代に翻弄された光景を現在に示す。

「富士見坂」――歴史の移り変わりとともに消えていった別名の「花見坂」

諏訪台通りを隔てた浄光寺の向かいには、南西に下る坂がある。

この坂道を「富士見坂」と呼ぶ。平成25(2013)年に坂下の西側にマンションが建設され、坂上から富士山の姿を眺めることができない。それまでは、坂上から実際に富士山が見える数少ない坂の一つだった。


写真/真直ぐな坂道の富士見坂(2017年撮影)

富士見坂は別名として「花見坂」の名が付けられていた。これは江戸時代、現在の富士見坂の北側の斜面地に位置した日蓮宗の妙隆寺と修性院、臨済宗妙心寺派の青雲寺の3寺が見事な庭園をつくりあげたことから、花見の名所となり、それら3寺が花見寺と呼ばれ、坂の名にもなった。

修性院(1573年創建)が寛文3(1663)年、妙隆寺(創建不明)が元禄7(1694)年、現在の富士見坂北側に移転してきた。青雲寺(創建不明)も宝暦年間(1751〜63年)には現在地に来た。このころ、3寺を合わせた広大な斜面地は桜やツツジなどが一面に植えられた庭園となっており、広重が描いた『名所江戸百景』の「日暮里寺院の林泉」と題した絵となる。


広重「日暮里寺院の林泉」『名所江戸百景』 出典/国立国会図書館デジタルアーカイブ

妙隆寺と修性院のどちらが最初に庭園を設けたかは定まっていないが、ほぼ時期を同じくする。修性院は宝暦6(1756)年に京都の庭師・岡扇計を呼び寄せ、気を吐いた。一方、青雲寺も負けじと、庭園に多くの諸堂を置き、回遊しながら庭園を楽しませた。このあたりが花見の名所になるとともに、妙隆寺の布袋様(現在は修性院にある)、青雲寺の恵比寿様が祀られ、江戸で最も古いとされる谷中七福神詣(享和年間〈1801〜04年〉)が庭園とセットになり人気を高める。

江戸時代の富士見坂とその周辺は、現在と比べずいぶんと様子が異なる。

境界が定まった真っ直ぐな一本の坂道ではなく、花見をする園路として回遊できるように巡っていた(絵3参照)。挿絵から富士見坂らしき坂道を探すと、妙隆寺の境内を抜けて山門から台地下に延び公道に出る坂がそれにあたる。他にもこの坂を含め5本の坂が確認できる。

現在は、南泉寺に隣接して法光寺という寺がある。この寺は慶安3(1650)年に現在の港区赤坂で創建した寺だ。江戸時代後期、その境内地が御用地となり、同じ幕府用地であった津の守坂沿い(現・新宿区四谷坂町)に移転し、明地となっていた一部を寺地として賜る。津の守坂を挟んだ向かいは美濃高須藩松平家の上屋敷があった。

その後、遅くとも明治後期には、現在地の日暮里富士見坂下へ移転してきた。『江戸名所図会』の挿絵には寺が描かれていないが、南泉寺の北側斜面上にあたる。寺が移転したころに、蛇行して下る坂道も現在のような真っ直ぐに下る坂道となる。その時、坂から富士山がよく見え、富士見坂の名が定着した。

近代に変貌する花見寺の境内

江戸の名所として知られた富士見坂周辺は、明治に入ると廃仏毀釈の影響から、花見寺と呼ばれてきた3つの寺の運営が厳しさを増し、境内地も大きく変化した。

青雲寺は、文化4(1808)年に起きた火事により次第に衰退する。背後の諏訪台上にある庭園だった部分(現・西日暮里公園一帯)は、石碑などを崖下に残る境内地に移した後、再建のために加賀藩前田家に売却して明治7(1874)年に手放した。前田家はその土地を当主の墓地とし、前田家13代当主(加賀金沢藩12代藩主)前田斉泰(1811〜88年、正室は11代将軍家斉の娘、溶姫)以降前田家当主の墓所が設けられた。

この墓地は、前田家が明治維新以降も本郷の上屋敷を本邸として東京での暮らしを選択したひとつの証であろう。

前田家は、東京帝国大学の敷地拡張のために、居宅地としていた本郷邸を駒場の東京帝国大学農学部実習地4万坪と交換して明治中ごろに移る。明治33(1900)年に弱冠16歳で前田家16代当主を継いだ前田利為(としなり、1885〜1942年)は、駒場の敷地に昭和4(1929)年から5年の歳月をかけ、当時東洋一の大邸宅と評された洋館と和館を竣工させた。その後利為は、ボルネオ方面軍司令官として従軍中の昭和17(1942)年に不慮の死を遂げ、3代続いてきた当主の墓所に眠る。

駒場の前田邸は戦後連合軍に接収された。接収解除後の前田邸は公園とすることが決定し、昭和42(1967)年7月に東京都立駒場公園として生まれ変わった。4代続いた前田家当主の墓所は利為が最後となり、昭和47(1972)年には金沢に改葬された。その跡地は西日暮里公園となる。

妙隆寺は、経営難から関東大震災以降に廃寺に追い込まれ、現在は寺院の姿を見ることができない。ただし、檀家が隣接する修性院に移籍し、墓地は存続した。

明治に入り経営が行き詰まる妙隆寺は、崖下の本堂を貸し、庭園であった斜面地に本堂を移動させた。明け渡した本堂跡はドラマチックに変化する。

妙隆寺本堂跡には、創立して間もない東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大学〈国立市富士見台4-30-1〉、1902年創立)が明治38(1905)年にまず移転してきた。この学校が明治42(1909)年下谷区谷中三崎町(現・台東区谷中)に移り、翌年には福宝堂が日暮里花見寺撮影所を開設(1910年7月)する。活動写真(映画)の時代がはじまろうとするころ、近代映画の撮影所として映画制作の拠点となった。

明治44(1911)年に発行された「北豊島郡日暮里村・三河島村・尾久村全図 地番界入」(東京逓信管理局、逓信協会明治44年刊、人文社複製)を見ると、崖の斜面上にある妙隆寺とともに、崖下には「花見座」の名が記してある。これが日暮里花見寺撮影所である。花見坂にふさわしく、近代シネマの1ページを刻んだ。

しかし、福宝堂は間もなく横田商会、吉沢商店、M・パテー商会と合同で大正元(1912)年に日本活動写真株式会社(日活)を設立。翌年(1913年)には、日活向島撮影所が葛飾郡隅田村字堤外1412番地(現・墨田区堤通2-19-1)に開設し、日暮里花見寺撮影所は閉鎖した。本堂まで明け渡して訪れた華やかさだったが、長続きせず関東大震災後に廃寺となる。

3寺のなかでは修性院が最後まで庭園を維持した。だが、戦後になって背後の庭は第一日暮里小学校(現・荒川区西日暮里3丁目7-15)に明け渡す。この小学校の開校は、明治18(1885)年と古い。戦争中に校舎が焼失するまで、開校当初から諏訪台通り沿いの日暮里6番地(現・諏訪台ひろば館、西日暮里三丁目3)にあった。こうして花見寺の記憶が薄れ、富士山がよく見える富士見坂の名がメジャーとなり、花見坂の名が消え去る。

【新シリーズ】
江戸~明治へとタイムスリップできる上野の坂道

【シリーズ】ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり
①地方にとっての東京新名所
②『大正六年 東京見物』無声映画だからこその面白さ
銀座、日本橋、神田……映し出される賑わい
④第一次世界大戦と『東京見物』の映像変化
⑤外国人が撮影した関東大震災の東京風景

⑥震災直後の決死の映像が伝える東京の姿
関東大震災から6年、復興する東京
⑧昭和初期の東京の風景と戦争への足音
⑨高度成長期の東京、オリンピックへ向けて
⑩東京の新たな街づくり、近代化への歩み
⑪江戸と昭和の高度成長期への変貌(『佃島』より)

【シリーズ】「ブラタモリ的」東京街歩き

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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