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まちと住まいの空間 第39回 ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり⑩ ――東京の新たな街づくり、近代化への歩み(『大東京祭 開都五百年記念』より)

岡本哲志岡本哲志

2021/08/27

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連載第39回目は『大東京祭 開都五百年記念』の後半である。

『大東京祭 開都五百年記念』(東京動画)

この映画では、いくつかの会場に分散してイベントが行なわれ、その様子が映像としてまとめられている。

主な会場は日比谷公会堂、第一展示会場となる竣工間近の東京都庁舎(1957年2月竣工、現・東京国際フォーラム)だった。ほかにも日本橋、銀座、新宿が展示会場となる。後半は主に施設内での催し、展示を軸に映像が流れ、エンディングへと向かう。

日本で唯一のコンサートホールだった日比谷公会堂で開かれたイベント

イベント会場の日比谷公会堂(1929年開館、鉄筋コンクリート造4階建)では、講演会、歌の発表会などさまざまなアトラクションが行われた。


絵葉書/日比谷公会堂(絵葉書左側に映る東京市政会館裏側、日比谷公園に面する建物)

後年、東京文化会館(1961年開館)、NHKホール(1973年開館)、サントリーホール(1986年開館)など、コンサート専用のホールが建設されるまで、日比谷公会堂は東京で本格的なコンサートを行なえる唯一のホールだった。定員2074名の大ホールでは、コンサートや催しだけでなく、戦前から政治演説会などが数多く開かれた。昭和35(1960)年10月12日には講演していた浅沼稲次郎(1898〜1960年)日本社会党委員長が暗殺された事件もここで起きる。

文芸講演会では、円地文子(1905〜86年)、青野季吉(1890〜1961年)、伊藤整(1905〜69年)といった活躍中の文筆家が登壇した。あるいは落語の志ん生(1890〜1973年)と講談のうめ吉により、ひとときの憩いの場を提供する。

最大のアトラクションは「東京の歌」(作詞・池田誠、作曲・服部良一)の発表会。

舞台では、古賀政男が指揮する楽団の前で、当時人気歌手だった岡本敦郎(1924〜2012年、代表的な歌は1954年に爆発的にヒットした「高原列車はいく」)と奈良光枝(1923〜77年、俳優・歌手、代表的な歌は「悲しき竹笛」〈1946年〉、藤山一郎と歌った「青い山脈」〈1949年〉)がデュエットで歌う。ただし、この歌がヒットしたとは思えない。私はこの映画を観て「東京の歌」がつくられていたことをはじめて知った。

昔と今、繁華街の入れ替わりと慶事の夜の彩り

祝い事といえば、「薪能(たきぎのう)」か。

「羽衣」を観世流長老の橋岡久太郎(1884〜1963年)が舞う。花火は定番だろう。ナイアガラといわれる花火の光景は、画面が暗すぎてよく分からないが、日比谷濠の石垣か。L字に曲がった濠のようにも見える。天皇が住まう宮殿近くであれば、花形の打ち上げ花火は当然のごとくできない。


現在の日比谷濠(2020年撮影)

浅草といえば、賑わいの定番とのイメージが強い。しかし、映画には浅草の商店街が映像としてわずかに差し込まれたに過ぎない。

現在の鉄筋コンクリート造で建てられた雷門は、昭和35(1960)年に完成する。

旧暦慶応元年12月14日(西暦1866年1月30日)に焼失して以来、1世紀近くの間不在のままだった(現在の雷門の場所に仮設的なものは幾度かつくられていた)。本格的な雷門の建設は、高度成長期に入り、新しい趣向や娯楽に人々の目が向けられ、戦前まで圧倒していた東京名所の主役だった浅草に危機感があったと思われる。


現在の雷門(2021年撮影)/編集部

この映画でも繁華街の主役は銀座が圧倒し、浅草はターミナル駅を核に繁華街として成長する新宿にも抜き去られた感があった。人通りの少ない商店街では「大東京祭」「五百年祭」の垂れ幕が寂しげに撮られた。その後映像は、夜の街頭に。イルミネーションをあしらった花電車が夜の銀座通りを連ねて走る。多くの人たちが銀座、新宿などの繁華街に出て提灯行列を行なった。

ディズニーランドでのパレードは、ファンタスティックな光の演出が多くの人たちを魅了し、人気を呼ぶ。現在の街中では管理・運営が難しいのだろう。東京の街を行く花電車は、平成23(2011)年に都営荒川線が100周年を迎え昼間に花電車を走らせるが、映画が撮影された当時とはケタ違いの小さな規模だった。

現在の日本国憲法が昭和22(1947)年5月3日に施行され、それを記念して花電車が東京で盛大に運行した。ナレーターの高橋圭三が映画のなかで「久々に」と語る。それは、憲法施行記念の時に走った花電車を指す。

東京を展望する高層建物の移り変わり

大東京展の第一会場である丸の内にあった旧東京都庁舎の展示会場は、秩父宮雍仁親王(1902〜53年、大正天皇の第2皇子)の妻、勢津子妃(1909〜95年)によるテープカットではじまる。

一般市民に混じり22歳の皇太子(平成天皇、1933年〜)が来場した。55歳の昭和天皇(1901〜89年)も会場に訪れる。昭和天皇は、まず第二会場の日本橋三越百貨店に立ち寄り、都庁の建物(高さ43m、地上8階、地下2階、塔屋3階)へ。丸の内にある都庁の会場では、「江戸城の模型」、「明治、大正、昭和の風俗展」、「原子力マジックハンドの操作実演」などを見学した。

その後、昭和天皇は旧都庁屋上に行き、さらに上の塔屋最上階から東京市街を眺める。43mの高みからの展望は、せいぜい高さ100尺(約31m)のビルに限られていた当時の東京市街を遠くまで眺められただろう。

昭和28(1953)年に公開された映画『東京物語』で、紀子役の原節子が義理の父母を演ずる、笠智衆と東山千栄子を銀座の松屋屋上にある展望台へ案内する。国会議事堂とともに、その周辺の東京市街を見渡すシーンは昭和天皇の目線の高さと重なる。


絵葉書/銀座から国会議事堂方面の眺め

また、東京都映画協会が製作した映画『わたしたちの都政』(1960年、カラー、ユーチューブにて一般公開、映像提供:公益財団法人東京都歴史文化財団・東京都江戸東京博物館)では、高さ43mの都庁屋上から当時の東京市街360度をパノラマで映す(連続した360度のパノラマではない)。その高さからさらに10m加えた展望台の上で、昭和天皇が東京市街を一望した。大名庭園の築山(つきやま)ではないが、高さ10mの違いは目の前の同じ風景を異なる世界へと導く。

『わたしたちの都政』(東京動画)

東京ミッドタウン日比谷が開業し、毎日新聞(2019年4月28日朝刊)掲載記事のために三井不動産の部長と対談する機会があり、庭園の築山に上ったときと似た体験を現代空間でできた。一般の人たちが眺望を楽しめるテラスと、そこから数階上がったロビーと、視点場を変えて眺める。目の前には同じ風景でありながら、角度の違いで変質する光景を比較できた。


東京ミッドタウン日比谷ロビーからの眺望(2018年撮影)。テラスからの眺めと角度が異なる


日本橋~銀座の洗練された店のディスプレー

東京都庁舎の第一会場、日本橋三越の第二会場のほか、2カ所の展覧会会場の様子が精力的に撮影された。

ひとつは銀座で開催された「錦絵に残る銀座の昔」展(主催:銀座通連合会、後援:東京都・中央区)である。
江戸時代に銀座の大店だった布袋屋(ほていや)や恵比寿屋を描いた絵が映された後、煉瓦街の街並みとなった明治初期の錦絵に画面が移る。「籠に変わって四頭立ての往来馬車、西欧文明が銀座を風靡」と近代に邁進する銀座をたたえ、「今の銀座」として銀座通りの俯瞰を撮る。


INAXビルからの銀座通り俯瞰(2004年撮影)

次に、晴海通りから皇居方面を地上から望む銀座四丁目交差点の映像へ。「大東京は車の数23万台、人口実に800万と発展したのです」と高橋圭三が大都市東京の現況を数字で付け加える。

さらに「かつて、最初のガス灯に目を見張った、その頃の銀座」と語り、2代目からくり儀右衛門が銀座二丁目にある大倉本館(現・Okura House)前で明治15(1882)年に試みた「アーク灯」点灯実験を描いた錦絵(「東京銀座通電気燈建設之図」重清画、1883年)を取り上げた。ただし、錦絵にある点灯シーンはガス灯ではない。映画を製作した人たちは「銀座煉瓦街」と「ガス灯」をどうしても結びつけたかったようだが、映画を見る限りちょっと強引な感じを与える。


Okura House〈大倉本館〉にはめ込まれた錦絵のプレート(2017年撮影)

「今では、まばゆいばかりのネオン、蛍光灯と、大きな時代の変遷を見せています」

とナレーションが入り、銀座の賑わいの話となる。しかし、映像はどういうわけか銀座ではなく、新宿三丁目付近の賑わう通りを映す。

65年前の洗練された銀座と、新興の繁華街である新宿との違いは歴然としていた。とはいえ、映画に映し出される店のディスプレーの違は大いに興味を引く。細かいことだが、ここは思いのほか映画の見所である。親に連れられ、新宿の街を歩くようになるのは、映画が製作されてから数年後のことだった。新宿の繁華街を抜けるときの猥雑な空気感は60年以上の歳月を経た今でもリアルによみがえる。

東京の未来を描いた新宿の展示会場

映画に映し出された東京の都市空間は、東京港と銀座が中心である。いずれも登場する時間が他を圧倒する。日本橋は三越が第二会場だったが、銀座のように街並みを映していない。

しかし、新宿の街の露出度は銀座に次いで多く、これは副都心構想に向けた伏線と思われる。ちなみに、現在超高層ビルが林立する新宿副都心(西新宿)は昭和35(1960)年に都市計画決定された。東京都庁舎の新宿移転は、映画から35年後の平成3(1991)年である。丹下健三が設計した丸の内の東京都庁舎は、わずか35年の寿命だった。その間に、東京の市街と都庁は巨大化した。

新宿の通りを俯瞰した後、カメラは子どもたちが未来の大東京を描いた展覧会会場へ。


新宿通り(手前が新宿駅)1952年、『東京この30年 変貌した首都の顔 1952〜1984』朝日新聞社、1984年より

場所は明らかにされていないが、先の映像に新宿の街並みが必要以上に映されており、新宿がいまひとつの会場と思われる。

「宇宙旅行も話題にのぼるこの時代にふさわしく、奇抜な東京の未来を描く子どもたちの絵には、今後、時代とともに変わり行く、東京の姿がうかがわれます」と高橋圭三が語りかける。

当時の日本では、手塚治虫の『鉄腕アトム』(1952年4月〜1968年)が21世紀の未来を舞台に、原子力エネルギーで動き、人間の感情を持った少年ロボット・アトムの活躍する物語が子どもたちの人気を集めた。

半世紀以上が過ぎた今、私たちはその21世紀に生きている。

SF小説で語られてきた「宇宙旅行」は、映画製作から5年後の昭和36(1961)年、ソビエト連邦(現・ロシア連邦)の飛行士・ガガーリン(1934〜68年)がボストーク1号に乗り、世界初の有人飛行に成功してリアリティを持つ。冷戦状態にあった米ソの熾烈な宇宙開発競争が背景にあったとしても、宇宙旅行、未来都市への関心が一般の人たちに強く意識されはじめていた。学校の先生たちも当時そうだったのではないか。私自身も小学生の時、未来都市の課題で絵を描かされた記憶がある。

敗戦から10年、人々の生活が安定し、まさに高度成長に入りつつあった時期に『大東京祭』が開催された。今では信じられない話だが、前年の昭和30(1955)年から昭和48(1973)年まで、経済成長率(実質)が年平均10%前後の高い水準で日本は成長し続ける。

上空から東京を俯瞰したエンディング

「このような無限の夢を抱く良い子どもたちを今日は空に案内しました」とナレーションが入り、絵画展で入賞した女生徒3人が自衛隊のヘリコプターで東京見物に飛び立つ。ヘリコプターからの主な撮影は、これも東京港と銀座。ナレーターの高橋圭三が「建設を急ぐ東京港」と語り、多くの船が行き交う東京港の全貌がカメラにおさまる。

空からの銀座の街並みは、手前に松屋、その先に和光の時計塔が見える銀座通り、外堀川が埋め立てられ、高速道路建設中の数寄屋橋周辺を中心に晴海通りが撮られていく。エンディングは国会議事堂からはじまり、オープニングのフィルムを逆回しするように、虎ノ門交差点付近と背後の東京港を映し、映画は終わる。


上空から見た1970年頃の銀座(晴海通りを中心に)

昭和27(1952)年に東京の中野区若宮で生まれ育った私は、この映画が映し出す風景と同じ時間と空気を共有している。ただし、西武新宿線沿線の都立家政駅近くに住まっていた4歳当時、東京湾に建設されつつあった東京港の姿、世界的に知られた日本一の繁華街・銀座を実体験として身近に感じていたわけではなく、別世界の存在でしかなかった。

それから65年も経つと、40年以上続けてきた東京の水辺研究、30年続けている銀座研究のおかげで、幸か不幸か映画の中のシーンはリアリティを持って視聴する自身の姿がある。本当にリアリティある懐かしさは、40年前からの東京港であり、30年前からの銀座なのだが。ただし、体験から生まれたリアリティにギャップがあるとしても、古い映像を視聴することで想像力を逞しくさせてくれる。古写真や絵葉書で見ていたはずの場所は視点場の違いや動きのある動画により、新しい発見が思いのほか多く、いつの間にか近代フィルムにはまる。

【シリーズ】ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり
①地方にとっての東京新名所
②『大正六年 東京見物』無声映画だからこその面白さ
銀座、日本橋、神田……映し出される賑わい
④第一次世界大戦と『東京見物』の映像変化
⑤外国人が撮影した関東大震災の東京風景

⑥震災直後の決死の映像が伝える東京の姿
関東大震災から6年、復興する東京
⑧ 昭和初期の東京の風景と戦争への足音
⑨高度成長期の東京、オリンピックへ向けて

【シリーズ】「ブラタモリ的」東京街歩き

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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