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じつは御三家ではなかった水戸徳川家

「水戸黄門」が幕末、明治維新にも影響を与えた!?(3/3ページ)

菊地浩之菊地浩之

2020/01/29

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光圀が種をまいた思想が幕末・維新に影響を与える

そして、井伊直弼が大老に就任すると、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印。反対派の大名を蟄居・引退させ、志士を処刑して徹底的な弾圧を行った。いわゆる「安政の大獄」である。その一環で、斉昭も水戸藩邸に幽閉された。ここら辺から水戸藩内は藩士が激論を重ね、収拾がつかないような大混乱に陥っていく。

1859年に水戸藩士が登城中の井伊直弼を暗殺(桜田門外の変)。さらに、1864年に藩内の過激派が筑波山で挙兵する(天狗党の乱)。乱は幕府軍によって鎮圧され、約350人が死罪となり、約130人が遠島に処せられた。そして、乱が集結した後も関係者の処罰が続いた。

水戸藩は『大日本史』編纂の過程で、独自に尊皇思想を理論化して「水戸学」に結実させていき、攘夷論と尊王論を結びつけた「尊王攘夷論」を唱えた。また、藩の学者・会沢正志斎(せいしさい)が国防の重要性を説いた『新論』は、刊行されるとたちまちベストセラーとなり、志士たちの間で宝典のようにもてはやされた。このように水戸藩は尊皇攘夷の理論的支柱として諸方面から期待されたが、内訌によって幕末で活躍する場を失った。幕末維新で水戸藩出身の志士というのをあまり聞かないのはそのせいである。

しかし、意外なところで、水戸家は御三家から一つ抜きんでることになる。光圀が始めた『大日本史』の編纂はその後も延々と続き、1906年に一応の完成を見た。明治維新後に御三家は侯爵に列したが、その功で水戸徳川家は唯一公爵に昇爵することができたのだ。一説には、宮内大臣・田中光顕(みつあき)が、大の水戸びいきで昇爵運動したらしい。田中は土佐の脱藩浪人で、ながらく長州に潜伏した維新の志士だった。水戸家を公爵に押し上げたのは、水戸藩の志士ではなく「水戸学」だったのだ。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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