ウチコミ!タイムズ

賃貸経営・不動産・住まいのWEBマガジン

じつは御三家ではなかった水戸徳川家

「水戸黄門」が幕末、明治維新にも影響を与えた!?(2/3ページ)

菊地浩之菊地浩之

2020/01/29

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

本当は庶民の人気が高かった斉昭

その徳川慶喜の父、九代藩主・徳川斉昭(なりあき)は、大河ドラマではとんでもない頑固爺(がんこじじい)として描かれているが、庶民には大人気の名君だった。

藩主に就任すると、藩政改革を断行。人事を刷新し、優秀な人材を郡奉行に投じて農村復興を試みた。また、海防に並々ならぬ関心を持ち、那珂湊(なかみなと)に砲台を築き、大砲を鋳造して設置し、大規模な軍事教練を毎年のように行った。藩校を設立し、精神修養と余暇のための施設として「水戸偕楽園(かいらくえん)」を造営し、領民にも開放した。

しかし、斉昭の極端な改革は既存勢力の反感を買うことになる。軍事教練は幕府から嫌疑を受ける。大砲鋳造のために寺院の梵鐘を没収したりして僧侶に恨まれる。さらに幕政に口を出して倹約を勧奨したため、大奥にも嫌われる。こうした反感の積み重ねが幕府を動かし、遂に1844年に斉昭は謹慎処分を受けてしまう。

ただ、斉昭はこんなことでくたばるようなタマではなかった。謹慎が緩くなると、斉昭は老中・阿部正弘に海防策を呈し、いずれ交易を求めて外国使節が江戸近海にやってくるだろうが、その折りは御三家や雄藩大名から「内々に」意見を求めた方がよいと進言した。

斉昭の危惧はやがて現実となる。1853年に黒船が来航したのだ。すると、斉昭はかねて造っていた大砲74門を幕府に献上し、水戸藩領から江戸に次々と運び入れた。黒船におびえていた江戸庶民は斉昭に拍手喝采を送り、大人気を博した。幕府も斉昭を大いに見直し、幕府の海防参与に任じた。また、阿部正弘は過去に斉昭に進言された通り、諸藩大名等に対して「大々的に」意見を求めた。これが諸藩の幕政介入の契機となった。

さらに、1857年に米国総領事・ハリスが通商条約の締結を迫ると、攘夷派の斉昭が大反対を唱える。当時の老中・堀田正睦(まさちか)は斉昭を押さえ込むには、朝廷から勅許を得るべきと判断した。しかし、それを知った斉昭は先手を打って、義兄の関白を介して孝明天皇に攘夷論を吹き込み、勅許を出さぬことに成功した。幕府の政策を否定したことで朝廷の存在が一躍脚光を浴び、京都が政争の舞台となっていく。

斉昭の権謀術数は結果として幕府の権威をおとしめる結果となったのだ。

次ページ ▶︎ | 光圀が種をまいた思想が幕末・維新に影響を与える 

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

ページのトップへ

ウチコミ!