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まちと住まいの空間第16回【宮城県 江島 その3】

平安から平成――集落形成はどのように行われたのか(4/4ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/10/09

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江島の発展から衰退するまでのプロセス


写真1、初期段階の谷戸状にV字に切れ込んだ斜面開発 写真2、第2段階の高台の東側一帯の開発

ここまできて、江島の集落空間はどのよう形成され、発展拡大してきたのかが気になる。水道が引かれるまで、島の貴重な水源であった大井戸は港と居住場の間にあった。しかも水源に近いほど有利である。初期段階は、谷戸状にV字に切れ込んだ斜面を開発し、密度高く家を建てていった(写真1)。

いま一つ気になる場所は、階段状になったメインの道を上がり切った東側一帯である。比較的平坦な斜面地が広がり、V字の谷戸と異なり屋敷を比較的大きくゆったりと建てることができる(写真2)。南側にある山の斜面が迫っておらず、日差しを受けやすい場所となっている。比較的広い敷地に南向きの屋敷を建てられた。水汲みの不便さを除けば、島では最も居住環境がよい場所である。この東側一帯には、切り開きとされる小山姓、稲葉姓、斉藤姓、阿部姓の家が目立つ。第2段階として、多くの分家を出し、ゆとりのある土地に本家を中心に移ったと考えられる。


写真3、第3の久須師神社の裏から満願寺に至る間の土地開発

第3の新たな発展段階としては、2つの流れが見て取れる。一つは、久須師神社の裏から満願寺に至る間の土地が開発された(写真3)。このあたりは江戸時代以降分家を出して系列拡大をはかってきた木村姓が多く、新たな分家の居住場所として開発されたのではないかと思われる。


写真4、井戸と祠

いま一つは、荒薮の入江に下りて行く道筋に家が並ぶ。このあたりの開発も後発として行われた。浜に下りる道の途中に、共同井戸が掘られており、脇に祠が置かれていた(写真4)。近くで網の手入れをしていた漁師の方に話を聞くと、この共同井戸は江島で一番水質がよいと話していた。江島では、メインの道沿いにある大井戸だけが水源の話題として取り上げがちであるが、荒薮も水に恵まれていたことから家の立地が見込まれたと思われる。

こうした発展プロセスを経て、1983年以降新たな開発地から離島がはじまる。久須師神社の裏から満願寺に至る間の開発された土地は家が解体され、基礎が雑草に覆われた廃墟となってしまっていた。現在は第2の発展段階のエリアを中心に家が残るに過ぎない。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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