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まちと住まいの空間第16回【宮城県 江島 その3】

平安から平成――集落形成はどのように行われたのか(2/4ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/10/09

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震災前と震災後、島はどう変わったか ――2011年と2015年の変化を見る――


図1、3.11直前(2011年)と2015年の建物比較

江島に入植した人たちの屋敷分布は東日本大震災の地震津波が起きる直前、2011年にどのような構成だったのか。不明な部分も多いが、次の3つに大別できる。切り開きの姓の系列、1877年以前からの旧家系列、1877年から1958年に新しく登場した姓である。1958年を過ぎると、新たな流入者はいなくなる。

2015年6月に江島を訪れた時、わずかに建物が残る現状を目にした。津波で建物がなくなったわけではなく、東日本大震災以降に取り壊されたのだ。取り壊された状況を知るために、震災直前の建物(母屋のみ)の立地状況を住宅地図帳(2011年1月版)から拾いだすと、92戸の建物がまだ江島に建ち続けていた(図1)。71.7%にあたる66戸が3.11以降に解体されたことになる。


図2、建物立地とその家の姓(2011年と2015年の比較)

解体された建物の39.3%にあたる26戸が建物に姓の記載がなく、震災直前から空家になっていた。2015年6月時点で解体されずに残る建物のうち、3つの建物も姓の記載がない。これらの空家は、完全に引き払ってしまったか、あるいは石巻、女川などの陸地側に本宅を構え、漁の時期に臨時に戻ってくる2つのパターンが考えられる。
ただ震災以降は、船を失った人たちが高齢ということもあり、借金してまで船の建造を新たにせず、漁業をあきらめるケースが多いと聞く。2011年時点では、姓が記載されている建物が63戸あったが、そのうち63.5%にあたる40戸が震災以降に解体され、わずか23戸の家に人が住むだけとなった。正確に把握できていないが、その23戸ですら、石巻、女川などの陸地側に本宅を構える二重生活を現在も行っている人も何人かいるはずである。

2011年と2015年の建物とそこの家の姓を比較しながら、変化を追うことにしたい(図2)。2011年時点では、1877年から1958年に新しく登場した姓が7戸あった。しかし、2015年では建物を残して居住する家が1戸だけとなる。残りの6戸は建物が解体された。江島での歴史が浅い分、離島しやすかったのだろうか。

1877年以前からの旧家系列の場合は、2011年時点で35戸あった。そのうち、2015年時点では12戸(木村姓4戸、中村姓2戸、その他6戸)が島に残り、23戸(木村姓11戸、中村姓3戸、その他9戸)が建物を解体して更地とした。3割強の人たちが島に残ったことになる。

最後に切り開きの姓の系列だが、2011年時点では21戸の家があった。そのうち、2015年では10戸(小山姓3戸、稲葉姓3戸、斉藤姓2戸、阿部姓1戸、橋野姓1戸)が島に居住し続け、11戸(小山姓1戸、稲葉姓2戸、斉藤姓5戸、阿部姓2戸、橋野姓1戸)が建物を解体している。半数近くの人たちが島に残った。しかも、切り開き6家の本家は維持されたと考えられる。このように見てくると、系列化して島に住み続けてきた歴史が古いほど、離島する割合が低いとわかる。なかでも、切り開きとされる小山姓、稲葉姓、斉藤姓、阿部姓、橋野姓はその長い歴史を継承するかたちとなった。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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