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2つの伊達家①――仙台・伊達家、鎌倉時代から続く名門を飛躍させた家祖・朝宗から独眼竜・政宗、幕末まで(2/2ページ)

菊地浩之菊地浩之

2021/10/10

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関ヶ原の合戦に乗じてやり過ぎて100万石をフイに

慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦が起こると、家康は政宗に対して最上義光、南部信直らとともに、上杉景勝を背後から牽制するようと要請。恩賞として旧領を含む49万石の支給を約束した。いわゆる「100万石のお墨付き」といわれる書状である。

野心家の政宗は、関ヶ原の合戦にともなう動乱を機に領土拡張を画策。これが家康の知るところになり、「100万石のお墨付き」は反故にされ、62万5600石に加増されるにとどまった。まぁ減封されなかっただけ、良かったのかもしれない。

関ヶ原の合戦後、政宗は千代(せんだい)に城を築いて「仙台」と改めた(付近に千体仏が安置されていたことにちなんで、千代といわれていた)。ここに陸奥仙台藩が成立し、政宗がその初代藩主となった。

政宗には庶長子・伊達秀宗がいたが、側室の子であり、豊臣秀吉の猶子(ゆうし、相続権のない養子)になっていたから、政宗は徳川家に遠慮して秀宗を後継者とせず、正室の子・伊達忠宗を2代藩主に指名した。

官軍に降伏、28万石に減封

幕末の仙台藩には大藩にありがちな事なかれ主義が蔓延し、官軍・幕軍の争いを日和見していたが、慶応4(1868)年1月に鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、それでは済まなくなった。官軍の会津藩征討参謀・世良修蔵らの東北での乱行に仙台藩士の怒りが爆発。閏4月に仙台藩士が世良修蔵を殺害。東北雄藩の官軍への不信感が頂点に達し、仙台藩、米沢藩らは東北26藩の重臣を仙台藩内の白石城に集め、会津征討中止の建白書を作成し、北陸6藩も加えて「奥羽越列藩同盟」を結成。官軍との対決姿勢を鮮明にした。

ところが、威勢が良かったのはここまで、5月に仙台藩兵は白河城の攻防戦に参加するも、官軍の攻勢の前に敗退。6月に二本松城が陥落し、三春藩・相馬藩が相次いで同盟から脱落。9月には米沢藩も降伏し、仙台藩と会津藩のみが孤立した。

ここに至って、藩内では戦闘続行か降伏かで大激論が交わされ、降伏を決定。仙台藩は28万石に減封されてしまった。

ちなみに、サンドウィッチマンの伊達みきお(幹生)は、伊達家の支流・大条家の子孫であるが、幕末に奔走した功績で、明治以後に伊達復姓を許された。幹生という名前は「政」とか「宗」の字が付いていると余計に注目されてかわいそうだと、父親が全く関係の無い名前に命名したのだという。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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