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1964-2020東京五輪へと続く道路開発2――昭和の“遺構”を使った銀座・築地の一体開発とは?(1/3ページ)

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写真/立木 信・OGW417Studio

水運都市の川と運河を道路にしてきた戦後の東京

1964年の前回の東京五輪を7年前にした57年、高速道路を所管する旧建設省は、都市計画都市高速道路に関する「早期開通マジック」(基本方針)を打ち出した。

都心では高速道は極力、未利用地、河川・運河上を利用することを奨励。これで都内にあった運河や外堀を埋め、その上に高架を作った現在の首都高速網ができた。当時は高速道もどんどん都心を分断して網掛けするのが「よし」とされた。その結果が評判の悪い「お江戸・日本橋の上にかかる高架式のコンクリートの首都高」だ。

水上・水運交通都市だった江戸は明治維新によって帝都・東京と名を変え、明治、大正、昭和と時代を経ながら、鉄道網が高度に発展して今のような首都圏を形成していった。そして、戦後、焼け野原から復興し、高度経済成長期に入ると、モータリゼーションの流れによって、それまであった運河や川はどんどんと埋められ、その上に道路に河川や海岸など水際を利用した高速道路網、環状・湾岸道路網を発達させた。

その1つでもある首都高晴海線も運河を埋め立て、その結果、河川の汚染を覆い隠した。埋め立てはさらに進められ、71年には築地川の東支川の小田原橋、海幸橋から隅田川までも埋められた。

前回(1964-2020東京五輪へと続く道路開発1取り上げた築地~新富町の間の未完の首都高速道路の支線建設計画も、その延長線上にあった。しかし、92年に不動産バブルが崩壊。景気対策で公共事業は急増したものの、「都心に自動車をなるべく入れない」という世界的な都市計画の潮流のなかで、新富町(中央区)と築地(同)を結ぶ高速道路計画は挫折したように見えた。その実、築地本願寺の裏手に、地下の高速用のトンネル道路が用意されていたことは前回に見てきた通りだ。

本来であれば、新富町でから分岐し、築地川の緑道の真下を抜けて築地本願寺の裏を通り、さらに築地市場の脇から隅田川を渡り、湾岸線へ至るルートだった。

中央区がまとめた「首都高速晴海線計画の見直しを求める意見書」(2010年)には、計画ルートについて次のように記されている。

〈晴海・築地区間については、地下構造となり、首都高速都心環状線銀座に合流するラインと、新大橋通りへ曲がり築地市場正門の手前に入出路をつくるライン、首都高速都心環状線新富町へつなげるラインとされていますが、これらについては、現在何の動きもなく、事業化の見通しが立っていない状況にあります〉

この文面からは、機会があれば、関係者に計画凍結の現状からの変化を求めていく考えがあったことをうかがわせる。

次ページ ▶︎ | 休止していたルートの復活と、道路の上はフタをして 

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この記事を書いた人

経済アナリスト

マクロ経済面から経済政策を批評することに定評がある。不動産・株式などの資産市場、国や自治体の財政のバランスシートの分析などに強みを持つ。著書に『若者を喰い物にし続ける社会』(洋泉社)、『世代間最終戦争』(東洋経済新報社)、『地価「最終」暴落』(光文社)などがある。

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