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一橋徳川家――御三家、御三卿の中で目立つ存在になった理由(2/2ページ)

菊地浩之菊地浩之

2021/06/08

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慶喜以後の一橋家は、慶喜の血縁で


徳川慶喜/Public domain, via Wikimedia Commons

当然ではあるが、一橋家には新たな養子が来た。前尾張藩主・徳川茂栄(もちはる。1831~1884)である。

茂栄は、美濃高須藩主・松平義建(よしたけ)の五男として生まれた。有名な「高須四兄弟」の一人である。長兄・徳川慶恕(よしくみ。のち慶勝)は尾張徳川家を継ぎ、茂栄の二人の弟は、会津松平家を継いだ京都守護職・松平容保(かたもり)、桑名藩の久松松平家を継いだ京都所司代・松平定敬(さだあき)と、名君ぞろいの兄弟だった。

茂栄は当初、実家の美濃高須藩を継いでいたのだが、安政の大獄で実兄・徳川慶恕が隠居に追い込まれると、慶恕の子・元千代(のちの徳川義宜)がまだ生後2カ月だったので、ピンチヒッターとして尾張徳川家を継いだ。

ところが、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、1862年、安政の大獄で隠居させられた実兄・徳川慶恕の謹慎が解ける。尾張藩内は慶恕派と茂栄派の対立が深まり、茂栄は1863年に隠居して、慶恕の子・元千代に家督を譲った。

茂栄は隠居後、大坂滞在中の将軍・家茂の側近くにあり、「親と思うぞよ」といわれるくらい信頼されていた。家茂の父・徳川斉順(なりゆき)は、11代将軍・徳川家斉の7男として生まれ、清水徳川家を継いだ後、紀伊徳川家の婿養子となった。だから、家茂は、父と縁のある清水徳川家の当主に茂栄を迎えようと画策したという。

ところが、慶喜が異母弟、徳川昭武(演:板垣李光人)の才能に感じ入り、パリ万博に派遣する際に箔を付けるために、清水徳川家の当主に据えてしまう。ついでをいえば、このパリ派遣に随員として従ったのが、渋沢栄一(演:吉沢亮)である。

そこで、茂栄が一橋徳川家の家督を継ぐことになったのだ。そして、茂栄の子・徳川達道(さとみち。1872~1944)が家督を継ぎ、慶喜の三女・鉄子と結婚。慶喜は一橋家のことを忘れていなかったようだ。

達道は40代半ばになっても子に恵まれなかったので、水戸徳川家から養子・徳川宗敬(むねよし。1897~1989)を迎えた。この宗敬は慶喜の甥の子にあたる。しかも、その妻は慶喜の孫娘である。慶喜の五男・池田仲博(なかひろ)が旧鳥取藩池田家の婿養子になっていたのだが、その仲博の長女・幹子(もとこ)が宗敬と結婚したのだ。

慶喜以後の一橋家は、男系だけを見ると慶喜の子孫ではないが、女系も含めると慶喜の子孫が継承するように工夫されていたようだ。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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