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鍋島家――鍋島猫騒動はやっかみ? 薩摩と並ぶ財力と軍事力で雄藩の一角に(3/3ページ)

菊地浩之菊地浩之

2021/05/08

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圧倒的な軍事力で「薩長土肥」の一角へ

1861(文久元)年11月、鍋島直正は隠居して閑叟(かんそう)と号し、嫡子・鍋島直大(なおひろ、初名・茂実[もちざね]、1846~1921)に藩主の座を譲った。

佐賀藩は強力な軍事力を抱えたまま、鳥羽・伏見の戦いにすら出兵せず、業を煮やした薩摩藩は「佐賀討伐」を唱える有様だった(対決していたら、薩摩藩が負けていただろう)。結局、鳥羽・伏見の戦い後の1868(慶応4)年2月、藩主・鍋島直大が藩兵を率いて上洛。官軍についた。かくして佐賀藩がイギリスから輸入していたアームストロング砲は上野寛永寺に立て籠もった彰義隊を1日で壊滅させ、圧倒的な軍事力を証明。会津戦争ではアームストロング砲が威力を発揮し、箱館戦争では佐賀藩の軍艦が活躍した。

それまで官軍の主力は「薩長土芸(安芸広島)」と呼ばれていたのに、いつの間にか「薩長土肥(肥前佐賀)」に変わるぐらいのインパクトがあった。ほかの3藩は藩士の活躍で勝ち取った座であろうが、佐賀藩の場合はひとえに鍋島直正の藩政改革の賜物である。そういうわけで、他藩のように下士(大隈重信、江藤新平、副島種臣[そえじま たねおみ]ら)が藩政を掌握するような事態に至らなかった。

維新後の鍋島家

明治新政府が創設されると、鍋島直正・直大父子は政府の要職に相次いで登用された(大名クラスで仕える人材は、鍋島直正、伊達宗城、山内容堂、松平春嶽くらいだったらしい)。

鍋島直正・直大は明治新政府の議定(ぎじょう)職に任ぜられ、さらに直大は外国事務局権卿、外国官副知事、民部卿、大蔵卿(兼務)を務めた。一方、父・直正は軍防事務局卿および制度事務局卿、蝦夷開拓庁長官、太政官大納言に任じられている。

鍋島直大は1869年に佐賀藩知事に任命されたが、1871年の廃藩置県で藩知事を免ぜられ、同年11月に岩倉遣欧使節団に従って欧米に留学、1879年までイギリスに私費留学した。帰朝後、東京地学協会、日本赤十字社の創立に関与し、イタリア公使、元老院議官兼式部官、宮中顧問官を歴任した。大名の子としては優秀な方なのだろうが、父・直正が余りに傑物だったため、「覇気なく、策なく、断なく、勇なく」と酷評されていたという。

直大の孫・鍋島直泰(なおやす、1907~1981)は宮内省式部官などを務める傍ら、全日本アマチュアゴルフ大会三連覇の偉業を達成した名ゴルファーとして有名。直泰の長男、鍋島直要(なおもと、1935~)もアマチュアゴルフ界の重鎮として名高い。支藩・肥前鹿島藩主の家系を継ぐ、鍋島直紹(なおつぐ)が1951年佐賀県知事に就任し、さらに1959年に参議院議員に当選している。

ちなみに、武家の名門・尾張徳川家、公家の名門・鷹司(たかつかさ)家の現当主はともに鍋島家の血を引いている。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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