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鍋島家――鍋島猫騒動はやっかみ? 薩摩と並ぶ財力と軍事力で雄藩の一角に(2/3ページ)

菊地浩之菊地浩之

2021/05/08

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オタク藩主・直正の藩政改革と技術革新政策


鍋島直正/(財)鍋島報效会 徴古館所蔵 Public domain, via Wikimedia Commons

10代藩主・鍋島直正(初名・斉正[なりまさ]、号・閑叟[かんそう]、1814~1871)は、前藩主の嫡男として江戸藩邸に生まれた。薩摩の島津斉彬の母方の従兄弟にあたる。斉彬が偉大なプロデューサーであったのに対し、直正は冷徹な技術オタクで、こと殖産興業に関しては斉彬も足下に及ばない業績を残した。

直正の家督相続時に佐賀藩は莫大な借財を抱え、直正が初めて佐賀に帰国する際に品川宿で借金の取り立てのために押し掛けた商人たちの座り込みに遭い、出発の延引を余儀なくされたほどであった。

そこで、直正は次々と過酷な藩政改革を行った。

まず、藩内を極端な能力制度に切り替えた。藩の役人の三分の一にあたる約420人を整理。家老以下、全ての家臣に対する俸禄米(切米)の支給をストップし、石高と役職に応じて俸禄を支給する形態に改めた。従来は役務がなんであろうと固定した収入があったのだが、直正は役務の有無によって俸禄の額を調整したのだ。極論するならば、世襲制の否定である。

また、上級藩士の子弟に勉学を奨励し、藩校「弘道館」への就学を義務化した。しかも、25歳までに一定の課業(カリキュラム)を卒業できない者は、罰を加え、藩の役職に任用しないようにした。その反面、上達者には知行の加増や加米・銀米(扶持米などの特別臨時手当)を与えて賞したという。

次いで、殖産興業であるが、直正は有能な人材を代官に投入し、小農民を保護して農業生産の振興と農村の安定を図った。その一方、櫨蝋(はぜろう)、陶磁器、石炭などの特産物の輸出を奨励した。もともと佐賀は気候温暖で肥沃な土地であり、地理的には長崎貿易へのアクセスが容易で特産物の輸出に有利であるなど、好条件が揃っていた。

ゆえに藩主が本気で改革に取り組めば、効果が現れやすかった。藩財政はあっという間に好転し、表高(おもてだか、=表面上の収入)35万7000石に対して、実収入はその倍以上の90万石以上に達したという。

こうして捻出した莫大な財力を、直正は惜しみなく西洋技術の研究と軍備の洋式化に投じた。

佐賀藩単独で長崎沖合に砲台を建築する構想を固め、1850(嘉永3)年に幕閣の諒解を取り付けた。それまでの国産製大砲は銅製で強度に難があった。しかし、鉄製大砲を輸入することなく、佐賀藩独力で開発、製造すると決め、家臣に指示。砲術家、洋学者、和算家、刀鍛冶らを総動員して砲術製造、砲術訓練に着手、また、佐賀城の北西に大砲鋳造所を設けて鉄製大砲の製造に着手した。翌1851年には国産初の24ポンド砲、さらに1852(嘉永5)年には36ポンド砲四門の鋳造に成功し、砲台を完成させた。

1853(嘉永6)年6月、ペリー率いる黒船が浦賀に来航すると、老中・阿部正弘は江戸湾岸防備の拙さを危惧し、佐賀藩江戸留守居役を呼び出して、鉄製大砲200門を大至急製造してくれないかと注文した。当時、実用に耐えうる鉄製大砲を製造できるのは佐賀藩だけだった。

かくして佐賀藩の威名は全国に轟き、諸藩からの注文や技術供与の依頼が殺到。さながら「天下の兵器廠(しょう)」の様相を呈しつつあった。佐賀藩は幕府からの大量発注を受け、反射炉の規模を拡大して工場用地を拡げていった。国産アームストロング砲の鋳造、大型木製船の建造、蒸気機関製造、蒸気船の製造に成功した。佐賀藩は洋式の兵器を藩内で製造し、着々と軍備を整えつつあったのだ。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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