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まちと住まいの空間 第38回 ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり⑨ ――高度成長期の東京、オリンピックへ向けて(『大東京祭 開都五百年記念』より)

岡本哲志岡本哲志

2021/07/15

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今回(38回)からは、戦後高度成長期の東京を映した近代フィルムをもとに、3回にわたって検証する。最初は『大東京祭 開都五百年記念』[1956年製作:東京都映画協会、構成・編集:伊勢長之助、解説:高橋圭三(NHK)、20分]からだ。

『大東京祭 開都五百年記念』(東京動画)

このドキュメンタリーは、開都五百年を記念して開催された東京都主催の大規模なイベントの記録である。「五百年」は、太田道灌が江戸城を開いてちょうど節目の年として位置付けられた。ちなみに、本映画の「祭」は「まつり」ではなく「さい」とナレーターの高橋圭三が読む。何か大掛かりなイベントを意識した呼び方にも思える。

『大東京祭 開都五百年記念』と名付けられた大イベントは、昭和31(1956)年10月1日、都民の日(1952年に制定)から15日間にわたり催された。その後、毎年都民の日に行われる恒例行事となり、昭和57(1982)年からは「ふるさと東京まつり」と名称を変えた。この映画が製作されたのは昭和31年、65年の歳月が経過したことになる。

イベントが極めて盛大に行われた背景には「オリンピック誘致」が潜む。

太平洋戦争(大東亜戦争、第二次世界大戦)で敗れた日本は、奇跡ともいわれる経済成長を遂げつつあった。その成長を確実なものにする起爆剤として、昭和35(1960)年のオリンピック開催に向け、昭和29(1954)年に立候補している。だが、イタリアのローマに破れた。ローマの魅力をいかんなく映像化した昭和28(1953)年製作のアメリカ映画『ローマの休日』が大ヒットした影響は大いにあろう。

東京が再チャレンジする昭和34年のオリンピック開催地選考を前に、『大東京祭 開都五百年記念』のイベントが開かれた。世界26カ国、29もの都市の市長を招く熱の入れようは、やはりオリンピック誘致と連動する。

大イベントに向けて

映画のスタートは、背後に東京港を望む虎ノ門交差点あたりから。カメラのレンズが左に移動し国会議事堂まで空撮の映像をパノラマで映す。次に「開都五百年記念」「大東京祭 青年祭」と書かれた横断幕が撮られ、9月30日の前夜祭会場へ。前夜祭となる青年祭は祝賀記念式典メイン会場の東京都体育館(1956年竣工、現・東京体育館、正式名称は東京都体育館、映画では東京体育館としている)で行われた。数千人の東京都民が招かれ、歌と踊りで盛り上がる。


上空からの国会議事堂の俯瞰 出典/『千代田区史 下巻』(千代田区役所、1960年)より


主な会場と映画に登場した場所

一方、外国の招待客も次々と羽田飛行場に到着する。

昭和28(1953)年には日本航空(現・JAL)が第二次世界大戦後初の国際線(東京からサンフランシスコまでの定期路線)をダグラスDC-6で運航開始していた。オランダやフランスなどの航空会社の就航も昭和30(1955)年までに相次ぎ、羽田空港における国際線の旅客が急増する。

現代的な設備が整う旅客ターミナル(現在の国際線ターミナルの西側付近)はイベント開催の1年前、昭和30(1955)年5月に開館した。映画でも、要人を乗せたSAS(スカンジナビア航空)の飛行機とともに、国際舞台の玄関口に変貌した羽田空港の新しい旅客ターミナルが映る。


完成して間もない羽田空港の旅客ターミナル 出典/『東京 四半世紀の変貌』(六興出版、1983年)より

メインポスター「GRAND TOKYO QUINCENTENARY 1456-1956」の画像を挟み、オープニングの朝は、小雨模様の皇居外苑において。都内の生徒たちが丸の内から延長された凱旋道路の清掃にかり出され、竹ぼうきで掃除する光景となる。男子生徒たちの背後、皇居正門石橋方向に伏見櫓が見える。カメラが180度回転し、女子生徒たちの背後には東京會舘が映る。「初日から雨にたたられました」と高橋圭三のナレーションが入る。10月は秋晴れをイメージするが、10月1日は現在から年代を遡ると意外と雨模様の日が多い。


皇居外苑から見た現在の丸の内(右が新築した東京會舘)

祝賀記念式典

「開都五百年記念祝賀式典」と書かれた横断幕の背後に映る東京都体育館では、多くの参列者が集まるなか、高松宮宣仁親王(1913〜87年、大正天皇の第3皇子)、喜久子妃(1911〜2004年、父・德川慶久〈慶喜の七男〉)夫妻が列席し、安井誠一郎(1891〜1962年、都知事歴1947〜59年)東京都知事の挨拶で祝賀式典がはじまる。その後、鳩山一郎(第3次鳩山一郎内閣の時代〈1955年 11月22日〜1956年12月23日〉)中西都議会議長、内閣総理大臣などへと挨拶が続いた。

東京都体育館は、昭和39(1964)年の東京オリンピックで体操会場となり、日本男子体操が団体2連覇を成し遂げる。個人総合では男子の遠藤幸雄、女子のチャスラフスカ(チェコ)がそれぞれ金メダルを取り、大いに東京オリンピックを盛り上げた。この体育館は昭和31年当時唯一既存の東京オリッピック関連競技施設でもあった。オリンピック誘致を視野に入れた大規模なイベントには、東京都体育館がデモンストレーション会場として重要視された。

「開都五百年記念祝賀会々場」は、東京都立公園の清澄庭園内、大正記念館と涼亭に場所を移す。関東大震災で焼失を免れた数寄屋建築・涼亭(1909年竣工、保岡勝也〈1877〜1942年〉設計)をまず池越しに撮り、メイン会場の大正記念館宴会場へと映像が移る。

深川の低地にある清澄庭園は、元禄期(1688〜1704年)に活躍した豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷からのスタートである。享保年間(1716〜36年)には下総関宿藩久世家下屋敷となり、現在の庭園の原型が築かれた。

明治11(1878)年になると、三菱の岩崎弥太郎が荒廃した下屋敷跡の土地を手に入れ、庭園の再生を図る。弥太郎は全国にある三菱の鉱山から珍しい石が出たら庭園に置く旨を社員に示した。現在の庭園にはそのときに集められた全国の珍しい石が配されている。兄の死で2代目三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は、明治24(1891)年に庭園の池に仙台堀川の海水を引き込み、汐入庭園としての趣を復活させた。

大正記念館は、東京市(現在の東京都23区とほぼ同じ範囲)が清澄庭園を公園としたとき、大正天皇の葬儀のために新宿御苑に建てた葬場殿(葬儀に向かう参列者の待合室)を移築する。しかし、昭和20年の東京大空襲で焼失してしまい、貞明皇后の葬場殿の材料を使い再建された。昭和31年当時の大正記念館はその姿を映す。


清澄庭園の池と大正記念館、大正天皇葬儀の時の葬場殿 出典/『大東京写真帖』1930年より

記念乗車券など行事のグッズ

「東京開都五百年記念」の切手(10円、外桜田御門から濠越しに丸の内の街並み。一番左が第一生命館)やバッジなど、この行事で販売されたさまざまなグッズが紹介された。


記念切手と同じアングルの現在の写真

無軌条電車(トロリーバス)などの記念切符も映る。記念乗車券の値段は、無軌条電車20円、バス15円、電車25円(これらは初乗り運賃ではない)。無軌条電車は廃止されて半世紀以上が過ぎており、実際に見たことがない人も多いことだろう。そもそも、「無軌条電車(トロリーバス)って何」という人も少なくないはずだ。

昭和27(1952)年に開業した無軌条電車は、路面電車(都電)とバスの長所を兼ね備えた乗り物であった。排気ガスを出さない、軌道用線路を敷設する必要がないという長所を持つ交通機関として、東京の街に登場する。しかしながら、主に交通渋滞が要因で、全ての路線が昭和43(1968)年に廃止となり、20年にも満たずに東京の街から姿を消した。

ちなみに、都電は、東京オリンピック開催に伴う道路整備のため、一部が昭和38(1963)年に廃止され、以降都電荒川線を残し昭和47(1972)年までにほかの全ての路線が廃止となる。

昭和31(1956)年当時の物価を見ると、タバコ一箱40円(現在500円)、 新聞購読料月330円(現在4400円)、郵便はがき 5 円(現在63円)、ビール大瓶113円(現在367円)、国鉄(現・JR)初乗り運賃10円(現在140円)だった。サラリーマン(銀行員)の初任給が1万円前後(現在20万5000円)。

これに対し、自動車は 1000ccクラスが68万円程度(現在200万円前後)である。ビールと自動車はそれほど価格を上げていない。ほかの物価上昇に合わせて仮に12.5倍上がったとすると、ビール1本約1400円、1000ccクラスの自動車が約850万円になってしまう。一般家庭に冷蔵庫などない時代、父親は近所の酒屋に冷えたビールを母親に買いに行かせ、ちゃぶ台に冷えたビール瓶を置き、大事そうに飲んでいたことを思い出す。

街頭パレードの賑わい

ディズニーランドにお株を奪われ、現在は街頭でのパレードが影をひそめているが、それまで記念行事のパレードといえば街頭が付き物であり、盛大なものだった。

銀座通りでは、平成11(1999)年に「音と光のパレード」が終焉するまでさまざまなパレードの舞台となる。私の年代では、パレードといえば銀座通りをイメージするが、銀座の「音と光のパレード」は明治百年を記念し、「大銀座まつり」(主催:銀座通連合会)として昭和43(1978)年からで、はじまったのは昭和39(1964)年の東京オリンピック以降である。

丸の内には「道路」と呼ばれた2つの通りがある。ひとつは、東京駅から皇居に向かう「行幸道路」(現・行幸通り)。天皇が列車で全国を行幸するために東京駅開設とセットに整備された道である。いまひとつは、現在の馬場先通りを含め、皇居正門石橋に延びる道が「凱旋道路」と呼ばれた。

日露戦争(1904・05年)後、戦勝祝賀のパレード(1905年5月)は丸の内の凱旋道路(現・馬場先通り)で盛大に提灯行列が行われた。そのとき、熱狂した一部の人たちが馬場先御門に詰めかけた。敵侵入を阻む馬場先御門の閉鎖的な枡形門内に殺到したことから、20人もの圧死者を出した。

この事故後に馬場先御門が撤去され、一丁倫敦(ろんどん)と呼ばれた煉瓦の街並みを抜け、皇居正門石橋に向けて凱旋道路が明治39(1906)年に延長整備された。オープニングの朝、生徒たちが清掃していた場所である。

開都五百年記念の『大東京祭』では、メインのパレードが丸の内の凱旋道路で行われた。凱旋道路を中心に進行する数々のパレードは、毛槍(けやり)を先頭にした大名行列、相馬野馬追(福島県南相馬市を中心に開催)で勇姿を見せる鎧兜に身を固めた武者行列、江戸町火消しの行列と、江戸時代をイメージさせる。


都庁舎前の武者行列と観衆 出典/『目でみる東京百年』東京都、1968年より

街頭でのパレードは、さらに日比谷公園から出発した学生たちの街頭モデル大行進、駐留軍軍楽隊のブラスバンドと、時間と場所を変えながら次々と画面に登場する。東京の周縁部では、各企業が趣向を凝らした花自動車によるパレードも華やかに繰り広げられた。企業にとってはオリンピックとの関係で重要なデモンストレーションの場となる。

国際港を目指す東京港へ注がれる熱い視線

映画『大東京祭』は、東京港の紹介にも力が入る。

東京港の「みなと祭り(昭和16年5月20日東京港開港を記念した行事。この年だけは10月に変更か)」では、歌手の暁テル子(1921〜62年)が一日艦長として自衛隊の船に乗り込み、笑顔を振りまく。終戦から10年、一般庶民の間では食うや食わずの状況から脱し、明るい未来が開ける意識を芽生えさせていた。

東京港は、すでに昭和 26 (1951)年から接収の解除がはじまっていた。

昭和31(1956)年には艀(はしけ、河川や運河などの内陸水路や港湾内で重い貨物を積んで航行する平底の船)による東京横浜間の 2 次輸送方式から、大型船を直接入港させる仕組みに切り替える「東京港港湾計画」が策定された。東京都が東京港を国際港として飛躍させるべく力を入れており、映画もその重要性を印象づけるように扱う。

「もはや戦後ではない」と書かれた昭和 31年度の経済白書が話題になった年、日本経済が高度成長するとともに、産業・人口の東京への集中が加速していた。膨大な物資の流通基地として、東京港の機能拡充が求められた時期だった。5年後の昭和36(1961)年には「東京港改訂港湾計画」が策定され、物資供給体制の近代化、港湾機能の拡充などを基本方針として 2243haの埋め立て計画が進行する。


上空から見た1954年の東京湾 出典/『東京この30年 変貌した首都の顔 1952〜1984』朝日新聞社、1984年より

映画が上映される1年前には、建築家・丹下健三が東京湾の真ん中に巨大海上都市を構想した「東京計画1960」を打ち出す。当時の東京は、深刻な交通問題を抱えていた。

【シリーズ】ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり
①地方にとっての東京新名所
②『大正六年 東京見物』無声映画だからこその面白さ
銀座、日本橋、神田……映し出される賑わい
④第一次世界大戦と『東京見物』の映像変化
⑤外国人が撮影した関東大震災の東京風景

⑥震災直後の決死の映像が伝える東京の姿
関東大震災から6年、復興する東京
⑧ 昭和初期の東京の風景と戦争への足音

【シリーズ】「ブラタモリ的」東京街歩き

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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