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離れていても、自分らしく生きる父親が私にとってヒーローだった(2/3ページ)

しばはし聡子しばはし聡子

2020/11/11

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■その後家族の生活はどうなりましたか。

歌舞伎町のお店がなくなり、原宿に引っ越しました。大家さんからの1年限定、という条件でしたが、そのとき初めて父と母と私の3人でちゃんと暮らした、それはとても幸せな1年間でした。いわゆる「普通の家庭」に憧れていたんです。

私は15歳のときですが、そのあと四ツ谷に家族でまた引っ越しましたが、そこで両親が決定的な喧嘩をしたみたいで。あるときから父親が家に帰らなくなり、母も働き始めたんです。

新宿で新しい仕事を始めた父親はお店で寝泊まりしていました。なので、私がいつも会いに行っていました。高校生の頃からは、父のお店の人手が足りないときは、母も姉も私もみんなで手伝いに行っていました。

その頃母には、生活を支えてくれる方がいて、私はその人のことを「お父さん」と呼んでいました。実の父親の呼び名は「パパ」でしたから。

その方は私たちの経済的支援をしてくれて、毎日家に来ていました。最初はいやだったけれど、面倒見てくれていたし、そのうちに受け入れるようになっていきました。100パーセントウェルカム!ということではなかったですけど、反抗もとくにしませんでしたね。

■その後、両親の関係はどう変化したのでしょうか。

高校2年生のときに母から「パパと離婚しようと思う」、と聞かされました。そのときは母親の旧姓になるのがいやで、嗚咽するほど泣きました。苗字が変わっても親子でなくなるわけではないけど、なんだか父親と離れてしまう気がしてそれがいやだったんだと思います。自分でもわけが分からないくらい悲しかったのを覚えています。そして母親に、「私はパパのところに行く!」と言って父親の元に行きました。母は悲しい顔をしていましたね。

でも結局父は、母の元に戻るように私に言いました。あのときの感情も言葉に現わせないけれど、脱力感にちょっと近かったと思います。だからといって父を嫌いになったわけではないですよね。そして、結局両親は私の願いを聞き入れてくれて、離婚はしないでいてくれたんです。母は29年間ずっと一緒に暮らしていたし、特別な存在ですね。

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この記事を書いた人

一般社団法人りむすび 共同養育コンサルタント

1974年生まれ。慶應義塾大学法学部卒。自身の子連れ離婚経験を生かし当事者支援として「一般社団法人りむすび」を設立。「離婚しても親はふたり」共同養育普及に向けて離婚相談・面会交流支援やコミュニティ運営および講演・執筆活動中。 *りむすび公式サイト:http://www.rimusubi.com/ *別居パパママ相互理解のオンラインサロン「りむすびコミュニティ」 http://www.rimusubi.com/community *著書「離婚の新常識! 別れてもふたりで子育て 知っておきたい共同養育のコツ」️

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