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忠勤と義理で各時代に名君、平成には総理大臣も輩出した細川家

菊地浩之

2020/05/23

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日頃の忠勤で藩主急死の危機を回避

細川忠利が死去すると、細川家では立て続けに不幸が舞い込んだ。その4年後に細川忠興が死去し、さらにその4年後に忠利の子・4代藩主の細川光尚(みつなお)が危篤に陥ってしまう。光尚は、見舞いに訪れた大老・酒井忠勝に「まだ子どもが幼いので、私が死んだら領地はお返しする」と遺言して死去。遺児・細川綱利(つなとし)はまだ6歳だった(当時はまだ六丸といった)。

幕府にとって仮想敵国・薩摩藩島津家の抑えとして熊本は要衝の地であり、6歳の藩主では不安であるから、国替えして有力大名を入れるか、54万石を2つに分けて細川一族で共同統治させるなどの案が検討されたという。結局、3代将軍・徳川家光が、忠興以来の細川家の忠勤ぶりを評価して、遺児・綱利に54万石の襲封を許した。やっぱり日頃の行いが肝心なのである

脈々と受け継がれた仙台藩伊達家との関係

ところが、9代将軍・家重の時に再び細川家に危機が訪れる。

7代藩主・細川宗孝(むねたか)が、江戸城内大広間近くの厠(かわや:便所)で旗本・板倉勝該(いたくら かつかね)にいきなり斬りつけられ殺されてしまうのだ。勝該は一族の安中藩主・板倉勝清を殺害しようとして、誤って宗孝を刺殺してしまったのだという。板倉家の家紋は九曜巴(くようともえ)といって、巴の周りに八つの巴をあしらったもので、細川系の家紋・九曜紋と似ていたからだ(この後、細川家は周りの丸を小さくして、間違われないようにしたという)。この時、宗孝はほぼ即死の状態だったらしい。

当時、武士はすでに官僚化していたが、建前としては軍人である。自分に瑕疵(かし:誤り)がなくても、斬られて即死というのでは沽券(こけん)に関わる。一歩間違えれば、御家断絶となる。しかも宗孝はまだ32歳、跡継ぎの子どももいなかった。ここにたまたまその場に居合わせた仙台藩主・伊達宗村(むねむら)がいい仕事をした。さも、宗孝が生きているかのように振る舞い。「越中殿(宗孝)はまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と指示した。宗孝は細川家藩邸に運ばれ、末期(まつご)養子の手続きを踏んでから死去したと発表。事なきを得た。

細川家ではこの伊達宗村の機転に感謝した。およそ150年前の朝鮮出兵で、伊達政宗と細川忠興が「王羲之(おうぎし:中国を代表する書家)」の書を取り合い、半々に分けて持ち帰ったという出来事があった。細川家ではその残り半分を伊達家に贈与したという。また120年後、戊辰戦争で熊本藩は仙台藩攻撃にやむなく加わったが、空砲を撃ったり、降伏の仲介を行うなどして恩義に報いようとした。さらに明治維新後に仙台藩の北側が水沢県(のち岩手県に編入)になり、たまたま旧熊本藩士・安場保和(やすば やすかず)が県令として赴任すると、県下の優秀な若者3人を重点的に育成。うち一人が総理大臣にもなった斎藤実(まこと)、もう一人が東京市長になった後藤新平である。仙台藩主のちょっとした機転が、のちに大きな実を結んだのであった。

さて、宗孝の急死により、実弟の細川重賢(しげかた)が藩主の座に就いたのだが、この重賢が江戸時代でも有数の名君になったのだから世の中は分からない。大規模な機構改革を行い、刑法の改正、衣服令細則の制定などを実施した。学問奨励にも力を入れ、藩校・時習館、医学校・再春館を設立した(ドモホルンリンクルで有名な熊本の製薬メーカー・再春館製薬所は再春館にちなんで名づけられたという)。

ちなみに、重賢の子・治孝に子がなかったため、分家筋の宇土藩・細川家から養子を迎えた。宇土藩の藩祖・細川立孝(たつたか)は側室の子だったので、現在の細川家には細川ガラシャの血が繋がっていないことになる(忠利も実は側室の子という説もある)。

派閥抗争で明治維新の時流に乗り遅れ

相次いで名君を世に出した細川家ではあったが、幕末には藩内が派閥抗争に明け暮れ、薩摩藩に隣接する大藩でありながら、明治維新で時流の波に乗れなかった。しかし、大正時代に家督を継いだ細川護立(もりたつ)は、美術界のパトロンとして名を馳せ、その長男・細川護貞(もりさだ)は第二次近衛内閣の首相秘書官に任命され、内閣企画院調査官、高松宮宣仁(たかまつのみや のぶひと)親王の御用掛、国務大臣秘書官を歴任。近衛文麿や高松宮宣仁親王の政治工作を裏方として支えた。その際の動向を記した『細川日記』は、戦前・戦中の政治史の貴重な史料になっている。

護貞の妻・温子(よしこ)は、総理大臣・近衛文麿の次女で、二人は幼なじみで恋愛結婚だったという。近衛文麿の長男・近衛文隆がシベリヤ抑留で無念の死を遂げたため、近衛家は護貞の次男・護煇(もりてる)を養子に迎え、近衛忠煇(ただてる)と名乗らせた。

護貞の長男・細川護煕(もりひろ)は朝日新聞社入社後に参議院議員となり、大蔵政務次官などを経て、熊本県知事に就任。熊本藩主直系の子孫が県知事に就任したことが話題となり、ユニークな政治手法で注目を集めた。1992年に日本新党を結成し、代表に就任。1993年7月の衆議院選挙で新党ブームを巻き起こし、自由民主党が議席の過半数を割ると、7党連立で内閣を組閣。翌8月に第79代内閣総理大臣に就任した。

ウルグアイ・ラウンドに従ってコメの部分開放に踏み切り、政治改革四法を成立させ、衆議院に小選挙区比例代表並立制を導入するなど、意欲的な政治姿勢を見せたが、1994年2月に佐川急便グループからの資金提供問題が浮上すると、4月にはあっさりと退陣。「祖父・近衛文麿譲り」の無責任さと揶揄(やゆ)された。還暦を機に議員辞職し、陶芸家として悠々自適の毎日を過ごしている。護煕の長男・細川護光(もりみつ)も陶芸家の道を歩んでいる。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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