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第20回 昭和、平成、そして令和へ――超高層ビルの時代と東京(2/4ページ)

岡本哲志岡本哲志

2020/02/04

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超高層ビルの第一号、三井霞が関ビル

100mを越える超高層ビルの歴史はすでに半世紀を越えた。その第一号が昭和43(1968)年に竣工した高さ147mの三井霞が関ビル(図1)。このビルの出現は、地震大国日本においても超高層ビル時代の到来を確信させた。設計は山下寿郎設計事務所、施工は三井建設と鹿島建設だった。このビルは、旧・東京倶楽部のビル跡地と霞会館(旧・華族会館)の敷地に建てられた。江戸時代まで遡れば、日向延岡藩内藤家上屋敷となる。

三井霞が関ビルが計画された当初は、建築基準法による「百尺規制」(31mの高さ制限)がまだあり、階数9階建ての規模を限度にビルが計画されていた。しかしながら、昭和36(1961)年に都市計画法が改正となり、考え方が一変する。新しく導入された「特定街区」を利用すれば、超高層ビルへの道が開かれたからだ。特定街区は、既成市街地の整備・改善を図ることを目的に成立した法律で、ある街区において、既定の容積率や建築基準法の高さ制限を適用せず、別途都市計画で容積率・高さなどを定めることができた。
三井霞が関ビルの完成により、この約50万立方メートル(総重量約10万トン)もの巨大な総容積は、想像がつきにくい大きな体積を表現する際に用いられた。そして、モノの大きさをイメージするときにそれ以前は「丸ビル何杯分」と表現していたものが「霞が関ビル何杯分」に変わる。


図1、主な超高層ビルと江戸時代後期の土地利用

東京で最も高い歴代超高層ビル


絵葉書1、東京タワーと霞が関ビル、そして世界貿易センター  絵葉書2、西新宿の超高層ビル群

三井霞が関ビルが最高高さの座を下りる時期は2年後と早い。昭和45(1970)年に高さ152mの世界貿易センタービルが抜き、2代目の東京一ノッポビルの座につく(絵葉書1)。このビルは、小田原藩大久保家上屋敷跡地に建てられた。超高層ビルのあけぼのは、台地と低地にある、いずれも大名屋敷跡地からはじまった。

2代目の国際貿易センタービルも、西新宿の再開発第一号として建てられた、1971年竣工の3代目となる高さ178mの京王プラザホテル(本館)に一年後に抜かれた。淀橋浄水場を再開発した西新宿では、超高層ビル建設ラッシュが訪れる。4代目の新宿住友ビルディング(210m、1974年3月)、5代目の新宿三井ビルディング(225m、1974年9月)など、200mを超える超高層ビルが次々と西新宿に建っていき、京王プラザホテル(本館)も、瞬く間に東京一のノッポビルから陥落する(絵葉書2)。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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