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まちと住まいの空間 第17回【ブラタモリ/白金編その3】

白金の高級感が維持できなくなりつつある時代の変化(2/4ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/12/30

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低地に町人地が成立しなかった白金


写真1、かつて川が流れていた谷底に下る坂 写真2、現在の目黒通り

スタッフの方たちと、坂道を下り白金の低地を歩いたが、面白くない。本来であれば、台地上に武家地があり、水が得られる低地に町人地ができる。需要と供給のなかで、台地上と台地下の関係が濃密になる。そこを結ぶ坂道が意味を持ち、坂に名前も付けられる。白金は、「三光坂」など、いくつかの坂に名が付けられているが、多くは無名の坂だ。魅力的な坂だが名前がない。それは、台地上と台地下の関係が希薄だからである。それが白金の特徴でもある。

白金は湧き水があまりにも豊富だったことから、谷の低地に下町が成立しなかった。どこも、坂道を下った谷底は、有り余るほどの水量を湛える川が流れ、とても人が住む場所ではなかった。どう見ても戦後に開発したとしか思えない街並みが目の前にある(写真1)。

逆に、八芳園など水をふんだんに取り入れた庭園が今でも楽しめる。江戸時代の町人地は、低地に町をつくれず、現在の目黒通りなど、台地上の街道筋だけに成立した(写真2)。江戸の都市空間においては、実に特殊なケースといえる。そのことに気付くと、台地上の高級住宅地化されたエリアへアプローチできる坂道がごく限られているとわかる。


写真3、白金の案内板

しかも、地形が複雑に入り組んでいることから、台地上の住宅地内の細い道は行き止まりの袋小路となる(写真3)。自動車もうかつに入り込めない。高低差の有無の違いがあるが、外部者が無闇に入り込めないヴェネツィアの袋小路の路地によく似ている。白金の坂や道の仕組みを体験して、エンディングへとつながる「名も無き坂道」では林田アナウンサーの明言が生まれた。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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