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まちと住まいの空間 第16回【ブラタモリ/白金編その2】

旧朝香宮邸から読み取る白金が高級住宅地になった理由(2/5ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/12/04

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危機を経て残る「豪邸」と「緑」


写真1、水が湧き出ている八芳園の池 写真2、旧服部邸の正面玄関と木々に覆われた屋敷

明治期以降の「豪邸」は、宮家、実業家が江戸時代主に大名屋敷だった広大な土地を再整備することで贅を尽くした邸宅地とする。大名屋敷跡をベースとしているから、半端な敷地規模ではない。そのような土地に、庭園と屋敷がつくり込まれた。

大正から昭和初期にかけては、明治期に未利用地だった東京周縁の旧大名下屋敷がターゲットになった。その理由は、東京の人口が急増し、関東大震災で荒れ放題だった大名屋敷跡の土地が着目されたことによる。それが白金であった。

例えば、白金にある現在の八芳園のベースとなる日立製作所の創始者で知られる久原房之助の自邸(1915年竣工)は、旧薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡である。江戸時代初期、ここは大久保彦左衛門の下屋敷だった。その後農地に戻ってしまい、田園の光景が長く続いた。このあたりの低地は湧水が豊富に出ており、生活の場にするには使いづらい土地だった。ただ、ふんだんに供給される水をポジティブに捉えれば、水の豊富さを受け入れた八芳園の庭園となる。池の底からは今もこんこんと水が湧き出ている(写真1)。人それぞれの好みで、庭園と屋敷をどのように配したいかで場所が決まる。

水が豊富な白金だが、台地の上は水との格闘がない。出羽米沢藩上杉家下屋敷跡を自邸にした服部時計店(現・ワコー)の創始者・服部金太郎の屋敷(1933年竣工)は、江戸時代の敷地規模に近い土地に建つ豪邸である(写真2)。こうした豪邸だけでなく、学校も密度高く白金エリアに立地する。特に高級感を醸し出すミッションスクールは、石見浜田藩松平家抱屋敷跡に立地する聖心女子学院、摂津三田藩九鬼家下屋敷、信濃松本藩松平家下屋敷などを合わせた土地に立地する明治学院大学が白金のステータス感を高める。


図1、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)とその周辺

宮家の朝香宮鳩彦親王の自邸(1933年竣工)は、讃岐高松藩松平家下屋敷跡の一部があてられた。この下屋敷は5万坪をゆうに越える敷地規模であり、「豪邸」と「緑」というかたちでこの屋敷は現在東京都庭園美術館と国立自然教育園に引き継がれた(図1)。

「豪邸」としては東京都庭園美術館が、建物と庭園がほぼ当時の朝香宮邸時代のまま保存されており、使われていた家具も残る。
「緑」は、東京ドーム4.2個分もの広さを誇る国立自然教育園に残された。ほぼ手つかずの武蔵野の自然、江戸時代の讃岐高松藩松平家下屋敷時代に讃岐から取り寄せた植物が顔を覗かせる。ブラタモリ・白金編では、一級の文化財や自然が単に残って来たのではないことを強調する。首都高速道路の建設をはじめ、幾つかの危機を乗り越え、現在の姿が維持されてきたからだ。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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