ウチコミ!タイムズ

賃貸経営・不動産・住まいのWEBマガジン

「家」の研究――尾張徳川家

将軍吉宗に冷や飯を食わされた御三家筆頭は幕末以降に大活躍(3/3ページ)

菊地浩之菊地浩之

2019/11/26

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

維新後は美術工芸の収集から政界のフィクサーに?

義親の積極果敢な性格は文化・芸術面で遺憾なく発揮された。国語や歴史の教科書に必ず掲載される『源氏物語絵巻』の図に「徳川美術館所蔵、徳川黎明会(れいめいかい)うんぬん」といった記述を見たことがないだろうか。その徳川美術館、徳川黎明会を作って、わが国の美術工芸品を買い集めたのが、義親なのである。当時まだ日本に美術館が少なかった時代で、超近代的な設備で国宝級の美術品を展示したことから、その快挙は日本のみならず海外でも注目された。

しかし、義親の真骨頂は美術のパトロンとしてではなく、うさんくさい政治活動にある。義親は陸軍中堅幹部が起こしたクーデター未遂事件(三月事件)の黒幕といわれ、戦後の日本社会党(現 社会民主党)の発足にはスポンサーとなったと思えば、自由民主党推薦で名古屋市長選に出馬(落選)するなど、政治の世界でも暗躍したのだ。

そして、義親の孫娘の婿養子になったのが、下総佐倉藩主・堀田家の子孫だった徳川義宣(よしのぶ)である。尾張徳川家で徳川・松平家以外からの婿養子で、堀田家の生まれであるが、血筋を辿れば、佐賀藩主・鍋島家に行き着く。婿養子になった5年後に、義宣は勤めていた東京銀行(現 三菱UFJ銀行)を退職して本格的に学術を学び直し、東京大学農学部林学科研究生、東京国立博物館研究生となった。愛知学院大学文学部講師の就任をかわきりに、青山学院大学文学部講師、上智大学美術史講師、学習院大学日本社会史講師を歴任し、学者としても活躍。『新修 徳川家康文書の研究』『徳川家康真蹟集』などの著書がある。

江戸時代中期に一番元気のなかった尾張徳川家は、幕末以降、度重なる養子戦略で、御三家で一番元気な家系へと大逆転したのである。

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

ページのトップへ

ウチコミ!