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「家」の研究――尾張徳川家

将軍吉宗に冷や飯を食わされた御三家筆頭は幕末以降に大活躍(2/3ページ)

菊地浩之菊地浩之

2019/11/26

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井伊直弼と対立――戊辰戦争では官軍側に

かくして、分家の美濃高須藩から徳川慶勝が迎えられた。徳川慶勝は幼少時から英邁の誉れ高く、その果断な性格がわざわいして大老・井伊直弼と衝突。「安政の大獄」で江戸藩邸下屋敷での蟄居を命ぜられた。嗣子が幼かったので、実弟の徳川茂徳(もちなが)が跡を継いだ。

徳川慶勝の兄弟はみな優秀で、俗に「高須四兄弟」と呼ばれた。残りの2人は会津松平家の養子で、京都守護職となった松平容保(かたもり)。伊勢桑名藩の養子で、京都所司代となった松平定敬(さだあき)である。なるほど、みんな大活躍である。井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、徳川慶勝の謹慎が解除されると、尾張藩内は慶勝の藩政復帰を待望する声で満ちあふれた。藩内の混乱を収拾するため、茂徳は自ら退き、慶勝が藩政に復帰した。

慶勝は第一次長州征伐の総督として出陣して長州藩を降伏させ、公武合体運動などに奔走。戊辰戦争が勃発すると、官軍支持を決断。慶勝は家臣四〇余人を東海道・中山道の大名、旗本に派遣し、官軍につくよう説得。御三家筆頭で東海の雄藩である尾張藩が官軍を支持し、さらに尾張藩による半ば強引ともいえる「勤王誘引」によって、東海道の譜代諸藩は一斉に官軍への恭順に傾いたという。慶勝の嗣子が早くに死去したため、徳川義礼(よしあきら)を婿養子に迎えたが、義礼にも男子は産まれなかった。ここで、のちに総理大臣となる加藤高明が暗躍し、越前松平家の松平春嶽(しゅんがく)の末男・徳川義親(よしちか)を婿養子に迎えることに成功した。

なぜ、加藤がここで出しゃばってくるのか。実は各藩主の末裔は、自藩出身の有力者を顧問・相談役に迎えて、家政を支援してもらっていたのである。加藤高明は尾張藩足軽の子に生まれ、東京帝国大学法科を首席で卒業して三菱財閥に入り、その後、外務省、大蔵省に転じ、外務大臣、憲政会総裁を経て、総理大臣に就任。その一方、尾張徳川家の顧問に就任していた。

加藤は尾張徳川家の財政が逼迫していることを聞き、その内情を詳しく調べ、東京で侯爵としての体面を保つために多額の出費を強いられていると結論した。加藤は田舎の城に住まう英国貴族の例を挙げ、尾張徳川家を名古屋に移住させた。そして、加藤は大名子弟の中からとりわけ元気者の義親を見出し、主家・尾張徳川家の養子に推薦したらしい。義親は松平慶永の子だけあって破天荒な行動力があり、世間を騒がせ、「最後の殿様」と呼ばれた。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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