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まちと住まいの空間13回【宮城県・雄勝半島】

本家と分家、そして自然災害――その関係からかたちづけられた町の姿(2/4ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/07/01

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惣本家とその居住場所


写真3、山側から見た熊沢の集落

熊沢浜はV字の細長い谷戸状の地形である。北西斜面地に集落が主に形成してきた(写真3)。水の確保、海からの津波の脅威、日々の生活環境としての日照、もちろん漁をするために海との関係の利便性が集落をかたちづくる条件として浮かびあがる。当然、本家と分家とでは立地する環境が異なる。限られた居住立地の場所をどのように融通し、集落を形成し、発展してきたのか。昭和24(1949)年、竹内利美の調査・研究をまとめた『竹内利美著作集2 漁業と村落』(名著出版、1991年)には、熊沢浜における本家と分家(別家)の調査結果が載せられている。この研究と、私たちが平成23(2011)年夏から平成27(2015)年夏にかけてヒアリング調査した内容を重ねると、興味深い成果が見えてくる。

最初の拠り所とした昭和24年当時の調査では、全戸数40戸(平成22年時点で42戸)の家のうち、惣本家は阿部姓が2家、藤井姓が1家、菅原姓が1家あり、熊沢浜の全戸いずれもが惣本家に行きあたるとする。2家ある阿部姓の惣本家の配置は、内陸側にある惣本家が「カミノエ(K-A系列)」、海側にある惣本家が「オエノエ(K-B系列)」の屋号で呼ばれてきた。藤井姓の惣本家は「オッキエ(K-C系列)」という屋号である。この3家が熊沢浜では中心的な存在であり、菅原姓の惣本家(屋号:スガサマ(K-D系列))は傍流(ぼうりゅう)的な立場にあった。熊沢浜の村社である五十鈴神社は宮守が藤井家惣本家である。最初に浜を切り開いた最有力者であった。

ヒアリング調査では、本家(旧家)として新たに2家の名前があがった。「カミ」の屋号を持つ阿部家惣本家の裏にある「ウシロ」の屋号を持つ阿部家、「ニイヤ」の屋号を持つ阿部家が本家筋にあたるという。ただ、すべての分家が惣本家にいきあたるとする60年以上前の調査と、この度のヒアリングで得られた本家の軒数の違いがあった。ヒアリングした方たちからは、2つの旧家がどこの惣本家に属するかは言い伝えられてきていないとの話である。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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