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まちと住まいの空間11回【三陸のまちと住まい編2】

阿部源左衛門家系列の建築に見る大須浜の住まい方(3/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/05/14

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阿部源左衛門家の別家のAT邸

いま一つの建物AT邸も、大須浜の廻船問屋で財をなした阿部源左衛門家から出た別家である。江戸後期ころに別家しており、大須浜の旧家五十五軒に数えられた。この家からもさらに別家が出された。現存する建物は別家した時に建ったものとされ、少なく見積もっても150年以上が経過していると推察される。

AT邸には南北に延びる道の東側から敷地に入り、右側に母屋がある。入口の左側には納屋が建てられており、便所や作業場となっていた。納屋の建物自体は新しいが、以前も同様の場所に納屋があったとされる。建物の前面に庭が取られ、井戸は母屋の裏にある。母屋は、南南西に向いて建てられ、玄関はそちらから入る。玄関を入ると、すぐドマとなる。その一部分は板敷きで、イロリが切られた。イロリはオカミにも切られており全部で2つイロリある。

内部空間の構成をもう少し詳しく見ると、オカミの広さが21畳(図5)。一般的なAR邸の15畳のオカミと比べ6畳分広く、江戸後期の標準的なオカミの規模ではない。AT邸の本家筋にあたる阿部源左衛門家宗家の屋敷が建て替えられる前に24畳あったオカミと比べ3畳分狭いだけである。オカミは冠婚葬祭の時に浜の人たちを招き入れる公的な空間である。浜の有力者であればあるほど、オカミは広くなる。多くの人を呼ばなくてはならない実用性に加え、オカミの広さにある種のステータスがあり、ピンチヒッターとは言え7代目を継いだ家に相応しい建物となったと思われる。ナンドは存在しない。後にこれを潰してオカミを広くしたのかもしれない。ちなみに、阿部源左衛門家宗家の味噌蔵は、24畳もあるオカミの裏ではなく、茶の間の裏にあった。オカミの広さによって、ザシキの規模や納戸の配置に多少の変化があったようだ。

オカミの左隣はオモテザシキ(8畳)とウラザシキ(6畳)となる。オカミほど、ザシキは家による規模の違いを見せない。AT邸も、オモテザシキの方がウラザシキよりも2畳分広く、大須浜で一般的に見られる表と裏のザシキ規模の関係である。


AT邸の内部空間(オカミ)

AT邸の建物は幸いにほとんど増築がされていない。新たに加えられた部分は、台所などごく限られた増築にとどまっており、昔の姿をそのまま残し続ける。実測調査に入ったはじめのころは、梁の太さにまず驚かされた(写真2)。太い梁と柱で組み上げられた高い天井を見上げながら実測調査していると、建物が特殊な構造であることに気づく。まるで船底をひっくり返して屋根にしたような構造である。ただ柱に関しては様子が少し変わる。大黒柱など主な構造材として使われる柱はもちろん太い材がそのまま使われた。だが、構造上あまり問題のない場所に使う材は厚手の板を四方に張り付けることで細い柱を太く見せかけている。

明治に入ると、大須浜でも養蚕が行われるようになり、江戸後期の建物を改築するケースが見られる。AT邸も同様で、屋根を上げ、養蚕の作業ができるように、天井を高く持ち上げる改修工事が行われた。変化は断面から見た時の高さだけで、その他に間取りは変えていない。オカミの周辺にはかがみながらでないと通れない回廊が一階の廊下の上に廻された。養蚕の作業用に、屋根を上げた時同時につくられたものと考えられる。茶の間の天井には床を張り、養蚕に使う道具が中二階部分に収納された。調査でのぞくと、養蚕の道具の一部がまだ残されており、養蚕の時代の空気が嗅ぎ取れたような気がした。

 

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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