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まちと住まいの空間11回【三陸のまちと住まい編2】

阿部源左衛門家系列の建築に見る大須浜の住まい方(2/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/05/14

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広間型三間間取りの建築

現在、大須浜には江戸時代後期から明治前期くらいまでに建てられた建築が十棟近く残る。そのなかで、2つの建物が阿部源左衛門家からの別家である。一つは宗家と隣接した東側の敷地に建つ建物(AR邸)で、敷地内の路地で宗家と結ばれている(図3)。いま一つは四男の阿部安蔵が初代となる建物(AT邸)である。これらの2家に加え、前回確認した阿部源左衛門家宗家の江戸時代後期に建てられた平面図を比較しながら、大須浜における居住空間の特徴を見ることにしよう。

建物の間取りは、いずれも「ドマ(土間)」(現在は茶の間)、「オカミ」、「ザシキ」からなる「広間型三間間取り」で構成される。大須浜の家はほぼこの間取りで建てられてきた。1970年代以降に新築した家も、玄関から裏の台所に通された廊下が加わるだけで、基本は「広間型三間間取り」を踏襲する。

大須浜は、2011年に起きた3.11の地震津波による建物被害も少なく、過去に発生したチリ沖地震津津波、1933年の三陸地震津波、1896年の三陸地震津波においてもほとんど被害を受けてこなかった。ただ、高度成長期以降は建て替えが少なからずあり、新しい建物が目立つ。3.11以降になると、空家だった古民家が取り壊された現場も目にした。人が住む場であり続ければ、壊されることもなかったはずの建物である。江戸時代後期から明治前期までの百年をゆうに越える建築が浜から消えていく現実が大須浜にある。

阿部原左衛門家7代目の阿部安蔵を祖とするAR邸


AR邸の外観(奥は阿部源左衛門家)

一つ目のAR邸は、別家した当初に建てられた建物と伝えられてきた。この辺りは宗家や古い別家が寄り集まるエリアであり、広い敷地を得ることができない。そのためか、敷地配置は母屋と納屋の間のスペースが庭というより、通路程度の広さにとどまる。旧家が集まる集落の中心部に見られる「並列型」の屋敷配置である(写真1)。


AR邸の間取りを見ると、オカミが15畳である(図4)。大須浜に残る江戸時代後期から明治初期以前に建てられた建物の多くが15畳のオカミであり、基本的な広さといえる。西隣の宗家が24畳のオカミであるのに比べ小規模なことから、祭などのハレとケの場で浜内外の多くの人たちを招くことはなかった。オカミが狭い分、オカミの後ろにはナンドを設けられた。このナンドはかつて味噌蔵として使われていたという。オカミの西隣はオモテザシキ(8畳)、ウラザシキ(6畳)が並ぶ。オモテザシキの方が2畳分広く、大須浜に建てられた江戸後期の建物の一般的なザシキ規模の配分である。

オカミの南側やザシキの西側には縁側が設けてある。たっぷりと日差しが入る南側は開放的だが、ザシキのある西側は全て壁である。夏場の南からの風が抜けず、風通しが悪い。ただ、もとは西側も壁でなく、戸か窓が設けられていたと考えられる。定かではないが、養蚕のために屋根を上げた際、西側に縁側を新たに設けた可能性が高い。改築された建物は、屋根裏を上げて天井を高くするとともに、周りの中二階部分に回り廊下を新たに設けた。その時に、西側の縁側も同時に増設したと考えられる。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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