アパートを包み込んだ死臭 20代半ばの青年はなぜ事故物件から去らなかったか(3/3ページ)
朝倉 継道
2021/06/25
亡くなったあいつが詫びている?
もうひとつの理由は、これも不思議な巡り合わせだが、亡くなった若者との間には、実は多少の交流があった。
管理会社にカギの保管位置を教えられ、この物件を私がひとりで内見に訪れた際(当時こうしたケースがよくあった)、たまたま出くわしたのが、この若者だった。私は、彼を早速つかまえ、物件の住み心地を尋ねた。
その際、いろいろと親切に教えてくれた彼の部屋に、入居後、土産を携えて訪れた。その後も、顔を合わせるたび互いに挨拶を交わした。
ちなみに、このアパートは、私にとっては初めての一人暮らしの舞台だった。つまり、亡くなった若者は、心細いそのデビューを支えてくれた最初の友人でもあったのだ。
そのうえで、さきほどの両警察OBに、怖気づいた気持ちをあっさり笑い飛ばされたあと、若者の住んでいた部屋のドアの前にあらためて立ってみた。すると、「住み心地を悪くして申し訳ない」と、彼が何やら詫びている声が、中から聞こえるような気もしてくる。
「友達だったオレまでがここから逃げ出すと、こいつは可哀想か」
と思い、とりあえず引っ越しは当面考えずにおくことを決断したというのが、このときの顛末だ。
個人にとっての「他人の死」とは
以上の体験は、賃貸住宅オーナーや、管理・仲介会社含め、事故物件への事前・事後の対策に関わっている人、さらには、いま賃貸物件を探している人にとって、特段役に立つものではないだろう。
ただ、ひとつ思うのは、他人の死というものは、それが自らの人間関係の中において起きたものであるか否かによって、大小意味が違ってくるということだ。
その点、この事故後、当該アパートにたったひとり残った「私」という住人は、おそらくは、亡くなった若者にとっても、同じ屋根の下に暮らす生前唯一の知り合いだったことだろう。
彼のことを知らぬ隣人は皆その場を去ったが、彼を多少なりとも知る者だけがそこに残ったという事実は、いま、自分ごとながら振り返ってみて興味深い。
他人であり、隣人である者の死に際しての、個人個人が受け取る意味において、このことは、わずかながらなんらかの示唆をもたらす材料であるといってよいのかもしれない。
この記事を書いた人
コミュニティみらい研究所 代表
小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。