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斎藤利三家――明智光秀の重臣にして春日局の父は、本能寺の変の原因になった?(2/2ページ)

菊地浩之菊地浩之

2021/02/08

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父の無念を晴らした娘「春日局」

山崎の合戦で光秀が秀吉に敗れると、利三は近江湖畔・堅田の明智旧臣を頼って逃げ延びた。ところが、利三はその明智旧臣に裏切られて捕縛され、一緒に落ち延びた二人の息子は斬られたという。結局、利三は6月18日に秀吉の命により京都六条河原で処刑された。

利三の三男・斎藤利宗(としむね)は生き延びて細川忠興(演:望月歩)、稲葉一鉄に預けられた後、加藤清正に仕えて朝鮮出兵で戦功を上げ、5000石を与えられた。清政の死後、浪人となったが、徳川家光に召し抱えられて5000石を賜り、子孫は旗本に列した。

利宗の登用には、末妹・春日局(かすがのつぼね)の人力があったと思われる。


春日局(麟祥院所蔵の肖像画)投稿者が作成, Public domain, via Wikimedia Commons

春日局の母は、利三の後妻で、稲葉一鉄の姪にあたる。稲葉家はかねてから近隣の林家との小競り合いが続いていたので、林家の子・正成を一鉄の孫娘と娶せ、婿養子に迎えることで和睦したのだが、その娘が死去してしまった。そこで、一鉄は春日局を稲葉家の養女に迎え、正成の後妻としたのだ。

どういう経緯かは諸説あるのだが、春日局は正成と離縁し、慶長9(1604)年に26歳で家光の乳母となった(福田千鶴氏は著書『春日局』で、春日局が家光の実母だとしている)。家光は秀忠の正室・お江(ごう)の方に疎まれ、春日局がその成育に尽力。家光が将軍に就くと、大奥を整備するなど、絶大な影響力を及ぼすに至った。また、春日局の実子・稲葉正勝は老中に登用され、子孫は大名として存続。利三は無念の死を遂げたが、その子孫は栄達を遂げたのである。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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