近衞家――五摂家筆頭、公家随一の格式と今につながる当主たち(1/2ページ)
菊地浩之
2020/08/13
藤原道長(Wikipediaより)
戦国時代の当主・前久の破天荒な性格
近衞家は藤原道長直系の子孫で、公家で一番の格式を誇る家系である。道長の直系の子孫が、京都の近衞通り(現在の京都市上京区近衞町)に「近衞殿」と称する邸宅を構え、近衞家と呼ばれるようになったのだ。近衞家は摂政・関白(せっしょう・かんぱく)を代々世襲していくのだが、その時代ごとに近衛家はさまざまな役割を担ってきた。
例えば、戦国時代の当主・近衞前久(さきひさ:1536-1612)は公家のトップにはあるまじき破天荒な人物だった(ちなみに、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、高貴な変人を演じさせたら右に出るものがない、本郷奏多が演じる)。
前久はわずか19歳で関白に就任し、その5年後に長尾景虎(ながお かげとら:のちの上杉謙信[けんしん])が上洛してくると、その人物に大いに共感し、血書の誓紙を交わして翌年には景虎の領地・越後(新潟県)に下向。さらに景虎が関東管領に任ぜられ、関東に出兵すると、前久は厩橋(うまやばし:群馬県前橋市)から古河(こが:茨城県古河市)に移動した。しかし、謙信の関東出兵は難渋し、前久は2年半で京都に逃げ帰ってしまう。
その後、京都では室町幕府の13代将軍・足利義輝(『麒麟がくる』では向井理)が暗殺され、その弟・足利義昭(滝藤賢一)が織田信長(染谷将太)に奉じられて上洛。15代将軍に就任した。
実は、前久は義輝・義昭兄弟の従兄弟で、姉は義輝夫人である。ところが、義昭と前久はその頃関係がこじれていたらしく、義昭の上洛にともなって前久は京都から大坂の石山本願寺、ついで丹波に逃げ延びた。
前久は反義昭ではあったが、反信長ではなかった。信長は義昭を追放すると、前久を京都に呼び寄せた。変わり者同士、信長は前久と気が合ったらしい。
本能寺の変が起こると、ショックを受けた前久は出家。しかも、毀誉褒貶の激しい前久は、信長死後の京都にいられなくなったらしく、京都を脱出。浜松の徳川家康のもとに転がり込んだ。実は、家康の先祖が住んでいた安城(愛知県安城市)に近衞家の荘園があった関係で、家康が徳川に改姓するのを、前久がゴリ押しで支援してくれたので、その御礼の意味も合ったらしい。小牧・長久手の合戦の前年、家康は前久が京都に帰れるように秀吉に取り直す(以上、近衞前久の経歴については、谷口研語『流浪の戦国貴族 近衞前久』中央公論社に依った)。
この記事を書いた人
1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。