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まちと住まいの空間 第40回 ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり⑪――江戸と昭和の高度成長期への変貌(『佃島』より)(2/4ページ)

岡本哲志岡本哲志

2021/09/28

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江戸から残る佃の渡しと昭和30年、変わる水辺風景

映画では北斎などの絵が映されてから、手漕ぎ船の模型をバックに、スタッフ紹介のフリップ、タイトルとなり、佃島と明石町を行き来する渡船と佃の渡船場が画面に登場する。佃の渡しはこの映画の主役であり、じっくりと撮影された。学校帰りの生徒、自転車とともに乗り込む男性、買い物帰りの家族など、佃島に生活する人たちの表情がさまざまに撮られていく。


佃島から来た渡船と明石町の渡船場(『目でみる東京百年』東京都、1968年より)

佃の渡しは、大正15(1926)年に手漕ぎ船から蒸気船に代わった。それを記念した石碑「佃島渡船」(1927年製作)が今も渡船場跡にある。渡船が廃止される以前は、朝6時から夜22時まで64往復し、実に15分に1回、佃の渡船場を発着した。映画では1日に約8000人、約1000台の自転車を乗せて隅田川を行き来したと解説する。島に暮らす当時の人たちにとって、渡船は生活を支える最も大切な交通手段だった。

手漕ぎ船の時代、隅田川の往復は思いのほか大変だったのではないか。8人が漕ぎ手なのだが、Eボート(10人乗り手漕ぎゴムボート)で隅田川を横断したことがある。その時は満潮にあたり、一挙に1m近くも水面が上昇した。上げ潮に流され、目的の対岸まで思うようにボートを前に進められなかった。自然のパワーと向き合い、渡し船が手漕ぎだった時代の難儀さをはじめて実体験した。

佃島のまち並み

渡船が佃の渡し場に着き、船に乗り込んでいた人たちが町中に消えていく。映画では、町の中心に架かる佃小橋からまず撮りはじめた。


入堀と佃小橋(1978年撮影)

カメラは、隅田川を背に、現在の佃三丁目方面を映す。

映像の背後にある月島(現・佃二・三丁目、月島の埋立地のなかで町名は佃)では、ぽつぽつと6、7階建のビルが建つ。カメラが右にパーンして、佃川に通じる掘割(佃支川)の風景へ。

佃島は、佃小橋が架かる掘割を挟み、2つの島からできていた。

そして、佃小橋の上から佃支川をカメラがとらえる。今では月島の方に多くの船が係留され、この入堀で現在見かける船はわずかだが、漁師町として輝いていた時代のイメージを残して掘割が公園化した。

江戸時代初期から、海、掘割に面する土地は幅京間7間(京間1間=1.97m)と空地が広く取られ、漁に向けた作業の重要なスペースだった。佃小橋の西側の空地は日常として網をつくろう場となる。その光景が映画にも登場する。橋と道路の建設で佃川が埋め立てられる以前、月島へ渡る佃橋が架けられていた。その橋上では開いた魚を板に並べて干した。そのシーンを佃島の風物詩として撮る。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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