まちと住まいの空間 第37回 ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり⑧ ――昭和初期の東京の風景と戦争への足音(『東京の四季』より)
岡本哲志
2021/06/16
完成度の低い映画
『東京の四季』(1932年、文部省)は上映時間54分のサイレント映画である。
貴重な映像が次々に登場するとしても、コンパクトに編集されていなければ、この長さのサイレント映画は一般の視聴者にとってつらいものになるだろう。この映画が実際にどのような状態で上映されていたかは不明だが、現在国立映画アーカイブに所蔵されているフィルムを鑑賞する限り、編集の完成度に疑問符がつく。
この映画のプロローグは11分と極めて長い。しかも夏だけの映像である。その一方で、40分程度の本編(43分)には夏のシーンが出てこない。春と初夏の前半、後半が秋から冬に至り、春に近づく季節となる。
東京における四季の変化を忠実に追うには、本編の前半と後半の間にプロローグを挿入し、順序を入れ替えて観る必要がある。ここでは季節に沿って昭和6(1931)年から昭和7年にかけて撮影された、東京の四季折々の風景を辿っていきたい。
東京の四季』に登場する主な場所
本編のスタートは「春」の天長節から
四季をベースに名所を紹介するパターンは、江戸時代以前から試みられてきた手法である。
広重の『名所江戸百景』がまず思い浮かぶ。映画『東京の四季』でも、江戸から続く名所の定番を登場させた。桜の名所といえば、上野、飛鳥山、隅田川沿いの墨堤となる。江戸時代から取り締まりが緩かった飛鳥山は、広重が飲めや歌えやの宴会モードを絵に描いてみせた。映画でも「花の上野」「人の飛鳥山」とし、飛鳥山で飲み、歌う光景を撮る。
とはいえ、自然の風景を愛でる江戸の名所と比べ、昭和初期の名所はだいぶ異なる。映画では四季を通じて復興した近代東京の姿が背景となる。では、四季それぞれにおいて、東京の何を柱の風景としたのか。
『東京の四季』における春は、4月29日に昭和天皇(1901〜89年)の誕生日を祝う天長節(1948年以降天皇誕生日、現在「昭和の日」)が中心に据えられた。
明治天皇、大正天皇、昭和天皇と続く、近代日本の重要な祭事として描く。「宮中の賀宴に召かれた文武百官の参内」のフリップに次いで、黒塗りの自動車が列をなし、正門石橋から宮城正門(旧西の丸大手門)に吸い込まれるシーンへ。
石橋と宮城正門、『日本地理大系 大東京篇』(改造社、1930年)より
映像が切り替わり、背後に富士見櫓が見える蛤濠に面する広大な空地には、多くの自動車が行儀よく駐車する。正門石橋から入り、宮中で参賀を終えた主人が坂下御門から出てくるまで待機する光景である。翌日(4月30日)は靖国神社の大祭となる。式典に参加する軍隊の行列が続き、軍主導の国家体制へと向かう空気が画面にたち込める。
梅雨の風景は江戸の風物詩を語っていない。
「さみだれ」のフリップから、東京駅、東京中央郵便局(1931年竣工)、あるいは一丁紐育(ニューヨーク)の丸の内行幸道路が登場する。「惜春(せきしゅん)の雨」では昭和2(1927)年に竣工した聖橋の橋上とその歩道を行き交う女学生やOLたちが映されていく。雨上がりの晴れ間、干された蛇の目傘の映像はモダンな銀座の歩道脇だった。雨はいつの時代も同じように降るが、それとセットになる背景は近代を象徴する場所が選ばれた。
「夏」の映像はすべてプロローグで処理、登場する水辺の風景
夏を主体とするプロローグは、女性のパラソル、男性の白い革靴にカメラがズームインする。
ショーウィンドーには男性の靴と帽子、女性と子どもの水着が陳列された光景を撮り、夏らしさが表現された。夏の風物詩だった銀座通りの日除け、その裏通りで涼しげに鳴る風鈴の風景と続く。
東京の夏の到来を告げる行事といえば、7月下旬に行なわれる「隅田川の川開き」。関東大震災後に近代橋梁に架け替えられた両国橋の上空で花火が炸裂する。両国橋と花火の様子を描いた広重の名所絵が思い浮かぶ。ただし、この映画の主役は昭和初期の新しい夏の風物詩であろう。
神田川の水源として知られる井の頭池を取り巻く井の頭公園の自然となる。
井の頭公園、『日本地理大系 大東京篇』(改造社、1930年)より
関東大震災後の井の頭公園周辺は、別荘地から郊外住宅地となりつつあった。「ラジオの号令に合わせて」のフリップから、夏の林間学校と見まがう風景のなか、子どもたちも、大人たちも真剣にラジオ体操に取り組む。私たちにお馴染みのラジオ体操は、昭和3(1928)年11月1日、昭和天皇即位の大礼を記念してスタートした。この映画が製作されるわずか数年前のことだ。
涼しげな井の頭公園の次は「暑い夏が来る」のフリップ。
強い日差しを受け、人影も疎らな東京駅と上野駅の駅舎が交互に映し出され、灼熱の東京をイメージさせる。地方と結びつく日本の終着駅は圧倒的に東京駅であり、上野駅。上野駅は映画が製作された昭和7(1932)年に2代目駅舎として落成したばかり。その露出度の高さは新名所としての注目度に比例した。
絵葉書/上野駅
夏の暑さに耐えて働く人たちの姿が映され、水を湛えた東村山貯水池(1916年着工、1927年完成)へと画面が切り替わる。関東大震災後には東京に潤沢な水を送る仕組みができ、その水が「東京へ!」「街へ!」と送られた。日比谷公園など、公園の噴水が涼(りょう)を演出し、散水自動車が熱した街路の路面を冷やす。散水自動車は昭和10年代に普及するが、昭和7(1932)年ころはまだ珍しい光景であり、映画にも登場した。
「水の東京」のフリップ。
「水の東京」は、幸田露伴が明治35(1902)年に発表した随筆のタイトルである。昭和5(1930)年に完成した荒川放水路(現・荒川)を競争用のモーターボートが疾走する映像から「お台場 江戸を護るために造った砲台の遺蹟」のフリップへと切り替わる。
東京湾海上に浮かぶ第六台場をカメラがとらえる。その東側にある埋立地(現・テレポートタウン)と陸続きの第三台場は、東京市(現・東京都23区)が昭和3(1928)年に整備して台場公園とした。ペリー率いる黒船来航の時代に設置された砲台が残る。当時も今も、意外に東京名所の穴場かもしれないと映画を観て思う。
東京湾上の船から現在の第六、第三お台場を眺める
第三台場から北北西の現代の都心部方面を見ると、レインボーブリッジ越しに芝浦と日の出の埠頭が望める。芝浦・日の出の両岸壁だけは、関東大震災直前に完成しており、復興に重要な役割を果たした。東京が復興するなか、切妻の屋根が連続する倉庫が日の出埠頭に出現した。時代も規模も異なるが、この風景を見るたびに広重が『名所江戸百景』の「鎧の渡し」で描いてみせた連続する切妻の蔵とだぶる。
日の出埠頭に立ち隅田川越しに東側を眺めると、明治期以降浚渫土で埋め立てた月島が見える。
この当時は月島遊泳場があり、東京湾の海で楽しげに泳ぐ子どもたちの姿をカメラがとらえた。昭和7(1932)年ころには隅田川沿いや江東地区に林立していた工場群から出される排水が影響し、水に親しむ環境が東京湾から失われつつあった。そのような時代、近代の新たな水に親しむ施設としてプールが登場する。
神宮プールは昭和5(1930)年に開設した(2002年閉鎖)。『東京の四季』では、月島で遊ぶ子どもも、神宮プールで泳ぐ子どもも、同じ時代の水の情景として撮られた。
プロローグの最後は中央気象台(旧東京気象台)である。大正12(1923)年1月、麹町区元衛町(現・千代田区一ツ橋)に移転してきた。まさにその年に関東大震災が起き、巨大な煙を背景に正午少し前で止まった時計を撮影した写真は、関東大震災(1923年9月1日)を語る貴重な光景として今も語り継がれる。地震に堪えた建物は時計も動きはじめ、残暑に起きた関東大震災の記憶とともにプロローグが締めくくられた。
「秋」は収穫にわく市場の賑わい、そして芸術とスポーツ
秋は、新鮮な野菜が東京卸売市場神田分場(1928年竣工)に運ばれ、所狭しと野菜や果物が山積みにされるシーンからはじまる。関東大震災で被災する東京會舘の画像が挿入され、関東大震災で多くの犠牲者を弔う震災記念堂(伊東忠太設計、1930年竣工)が映る。
美術の秋は、上野の東京府美術館(岡田信一郎設計、1926年竣工、現・東京都美術館)に時間を割く。ここでの展覧会の映像は力が入る。作品が搬入される様子、展示会場に山と積まれたなかから作品が選ばれ、展示光景に変化する流れを丹念に追う。明治神宮外苑の各種スポーツと明治節(11月3日)に行なわれる明治神宮大祭も秋を感じさせる。
絵葉書/上野の東京府美術館
そして、昭和6(1931)年8月25日に国際空港として正式開港した秋の東京飛行場(現・羽田空港)がじっくりと撮られた。高き秋空に、東京飛行場をプロペラ機が飛び立つ。東京の新しい風物詩として描かれた空港、そこに設けられた小振りな管制塔がモダンで素敵だ。
絵葉書/東京飛行場(現・羽田空港)
昭和の農村恐慌と戦争の影を隠す正月の賑わい
晩秋の風景として、赤坂離宮、日本勧業銀行、日本銀行、三井本館(1929年竣工)がいかにも頑丈そうで厳めしい建物の姿をみせる。昭和4(1929)年10月、米国での株の大暴落からはじまる世界恐慌は日本にも押し寄せ、輸出生糸の値が大暴落した。銀行や企業の倒産、小津安二郎の映画『大学は出たけれど』が話題になるほどの就職難だった。
大規模な凶作(1931年)に見舞われた東北地方では、娘を身売りしなければ生きていけない農家が続出する。映画『東京の四季』が完成した昭和7(1932)年、日本が清国最後の皇帝・溥儀を擁立し、中国から独立させるかたちで満州国が成立(3月1日)。5 月15日には5.15事件が起き、犬養毅首相が射殺された。軍部の戦争拡大路線は以降止まらず、大東亜戦争(第二次世界大戦)へと突入する。映画に映し出された光景にもその陰が落ちる。
歳末の風物詩は、正月準備の松や竹、蜜柑や酒が東京の市場に大量に積まれる映像を挿入する。ただ「暮の街」は、年末商戦の銀座の街頭であり、歳の市も銀座。この映画では、銀座の街が年の瀬の風景を一手に引き受けた。
新年を迎え、薮入りは浅草六区の賑わいを映す。フリップでは「相撲のにぎはいよりも 一層にぎはふ 薮入りの浅草」と。大相撲は昭和2(1927)年に年4場所(1場所11日間)となり、翌年からラジオ中継が開始された。勝負を争うスポーツに変化し、上々の相撲人気だった。それを引き合いに出してまで、浅草六区の賑わいがいかにもの凄いかを映像で伝える。
写真/浅草六区の劇場街、『日本地理大系 東京篇』(改造社、1930年)より
再びの「春」に映される靖国と紀元節、意外な東京の風景
「春近く雪降る」のフリップ。
東京は3月に雪の降るケースが多い。3月の雪となれば「井伊大老受難の桜田門」となろうか。「桜田門外の変」は旧暦安政7年3月3日(西暦1860年3月24日)、雪模様の日に起きた。映像も現在国会議事堂が建つ井伊家上屋敷跡を望む桜田濠と外桜田御門の雪景色を撮る。
近代の雪景色となると、日比谷公園、銀座通りも定番だが、『東京の四季』では郊外電車が走る線路脇の空地で雪合戦を楽しむ子どもたちの姿がじっくりと映し出された。雪の固まりを顔に受け、ときに本気モードになる子どもの様子もしっかりと撮る。この映像は、関東大震災以降に郊外の生活が徐々に定着しつつあった新しい風景である。
春が近づく2月11日は九段の靖国神社から。上野公園などの各会場では紀元節(日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日)の式典が盛大に行われた。
「小さな参列者」のフリップとともに、軍服姿の小さな子どもたちが映る。あどけない表情から、子どもたちにまで戦争の陰がまだ忍び寄っていないかのようにも見えるが。紀元節の行事は、各会場から二重橋前に移動し「天皇陛下萬歳!!」を唱和して終わる。
『東京の四季』を観て特に印象深いシーンが最後の方で待ち受けていた。
「帝都東京に再び春がおとづれる」のフリップが出された後、ラストシーンとなる映像である。中央気象台の屋上から、丸の内の街並みを鑑賞できるとは思わなかった。このような方角から丸の内を観たのははじめてであり、この映画の見どころの一つだろう。
『東京の四季』は、全体を通じて江戸からの四季を彩る風物詩がこまかくちりばめられていた。登場する風景もかなりの数にのぼり、一つひとつの映像は見応えがある。強く印象に残るシーンは、関東大震災から復興した東京の都市風景であり、その一方で、悲惨な戦争が忍び寄る光景として、ときどきに登場する子どもたちの軍服姿があった。
【シリーズ】ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり
①地方にとっての東京新名所
②『大正六年 東京見物』無声映画だからこその面白さ
③銀座、日本橋、神田……映し出される賑わい
④第一次世界大戦と『東京見物』の映像変化
⑤外国人が撮影した関東大震災の東京風景
⑥震災直後の決死の映像が伝える東京の姿
⑦関東大震災から6年、復興する東京
【シリーズ】「ブラタモリ的」東京街歩き
この記事を書いた人
岡本哲志都市建築研究所 主宰
岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。