ウチコミ!タイムズ

賃貸経営・不動産・住まいのWEBマガジン

多芸と多彩、犠牲の上に成り立った肥後熊本54万石の大大名になった細川家(1/2ページ)

菊地浩之菊地浩之

2020/04/29

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

妻・ガラシャを自殺に追い込んだ石田三成の不覚

細川藤孝の嫡男・細川忠興は、松永久秀攻めで15歳の初陣を飾り一番鎗の功名を挙げ、信長から自筆の感状をもらっている(通常は右筆が代筆するので、信長自筆の書状は2点しか残っていないという)。なお、忠興という名は、元服時に信長の長男・織田信忠から偏諱をもらったことに由来する。本能寺の変後は秀吉に従い、朝鮮出兵などで活躍した。

忠興は父・藤孝と同じく多方面に才能があった。弓馬、軍礼の故実に通じ、蹴鞠、連句、狂歌、謡曲を嗜んだ。茶道では「三斎(さんさい)」と号し、千利休の優れた高弟「利休七哲」の一人に数えられている。また、自らの経験を活かして「三斎流」といわれる甲冑様式を考案。「越中ふんどし」も忠興(官途名、越中守)が考えたものだという。

しかし、関ヶ原の合戦は細川家にとって幾つもの試練を与えた。細川忠興は石田三成と仲が悪く、家康の上杉景勝討伐に従軍した。三成は家康に従った諸将の妻子を人質にとろうと考え、忠興夫人・玉(細川ガラシャ)に兵を差し向けて連れ出そうとしたが、玉はこれを拒否して自刃した(玉はキリシタンなので、自害は許されず、実際は家臣・小笠原少斎に自分を殺害するように命じた)。

忠興は嫉妬深く、玉に見とれて木から落ちた植木職人を手討ちにするほどであったから、人質にされるくらいなら、玉に自刃するよう命じていたという。玉の自刃により、三成は人質作成を断念せざるを得なくなった。

細川忠興の長男・細川忠隆は、前田利家の娘・千世を妻に迎えていたが、千世は離縁されて前田家に返された。夫・忠隆は千世を庇ったため、廃嫡(はいちゃく)されてしまう。一説には、玉が自刃した際、千世は運命をともにせず屋敷から逃げ延びたことが忠興の怒りを買ったのだという。

次ページ ▶︎ | 芸が身を助けた父・幽斎、長男廃嫡、次男は切腹、跡取りは三男・忠利 

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

ページのトップへ

ウチコミ!