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「家」の研究――真田家

幕末で残った子孫は実は伊達政宗の子孫(2/3ページ)

菊地浩之菊地浩之

2019/09/30

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分家がなくなって困るのは、本家が改易された時に真田家が途絶えてしまうこと、または本家に男子が生まれなかった時に他家から婿養子をもらわなければならないことだ。

不幸なことにその危惧が当たってしまう。6代目・幸弘(ゆきひろ)の男子が早世し、1785年にやむなく井伊直幸(なおひで)の九男・幸専(ゆきたか)を婿養子にもらうことになったのだ。幸弘は恩田木工(おんだ もく)を登用して藩政改革を行った名君として知られているが、跡取り息子のことはどうにもならなかったらしい。

井伊家と真田家は直接姻戚関係がなく、『真田丸』の次の大河ドラマが『おんな城主(井伊)直虎』くらいの共通点しかないが、それはまだ先の話。幸道夫人が宇和島藩伊達家の出身で、初代・伊達秀宗(ひでむね、政宗の庶長子)夫人が井伊家出身だったからかな? ――それくらいしか思い当たる点がない。

ところが、せっかく迎えた婿養子の幸専にも男子が恵まれなかった。そこで、今度は白河藩主である松平定信の次男・幸貫(ゆきつら)を婿養子に迎えた。松平定信とは、アノ教科書にも出てくる「寛政の改革」の、松平定信である。その定信の子だけあって、幸貫は外様大名でありながら老中に登用され、藩政では佐久間象山(さくま しょうざん)を登用するなど名君として知られた。

しかし、幸貫と正妻の間には男子が生まれず、真田家の血脈はここで途絶えることとなった。幸貫の孫・幸教(ゆきのり)もなかなか男子に恵まれず、宇和島藩・伊達宗城(むねなり)の長男・幸民(ゆきもと)を養子に迎えた。

伊達宗城は「幕末の四賢侯」の一人、全国でも有数の名君として知られたが、その有能ぶりがアダとなって大老・井伊直弼(なおすけ)に隠居を強いられてしまう。宗城はもともと養子で、前藩主の子が跡を継いだため、宗城の子どもたちは宇和島藩主となる可能性を摘まれてしまう。そこで、幸民は長男なのに真田家へ養子に出されてしまったわけだ。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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