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まちと住まいの空間第15回【宮城県 江島 その2】

震災と過疎化で変わる離島――島の記憶をたどる(3/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/09/09

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江島の古民家


写真3、久須師神社と屋根に煙出の窓がある家

港に向けられていた視線を右の方へ転じると、石を積み上げたよう壁が帯状に層をなす。その上に主に平屋建ての建物が建つ光景が目に止まる。「煙出し窓」を屋根に設けた家である。それは煮炊きや暖を取る囲炉裏に薪をくべて燃えたときの煙を外に出す窓である。現在も残る28棟の建物のうち、7棟が屋根に煙出し窓があった(写真3)。

島に残る建物の屋根を見ていくと、ほとんどの建物はスレート葺き、瓦葺きである。前回登場した中道等氏の記述では、昭和初期に江島を訪れた時、萱葺き、藁葺きの屋根が多かったとしている。昭和41年に刊行された亀山慶一氏の論文「宮城県牡鹿郡女川町江島」によると、「屋根は杉皮・栗コバ・杉コバで葺き、それに石をのせてある。昭和25年ごろはスレート揖き屋根もかなり見られた。もとは萱屋根も一〇戸くらいあった。萱は岡のほうから運んできた」と書かれている。そのことから、萱葺きの屋根は戦後見られなくなっていたのかもしれない。

江島を特集した「朗 すまいとくらしの雑誌」の昭和35年8月号に当時の建物の特色を示す説明があり、「杉皮葺きの上に石を一面にのせてあるのがこの島の従来の屋根である」との記述を目にする。スレートが普及するまでは、杉皮葺きの上に石を一面にのせる屋根が江島の風景をつくりだしていたようだ。

2015年の調査では、久須師神社と古い建物で構成する集落空間の断片を切り取るために、実測を炎天下のなかで試みた。幸い、野帳を取っていた学生に家のなかで休むようにと、家の方が声をかけてくれた。その方(昭和15年生まれ)は、久須師神社の途中にある明治15年に建てられた古い建物に一人住まいであった(図1、図2)。先祖は切り開きの系列ではないが、江戸時代から江島に住み続けてきた姓の系列である。島で何世代も代を重ね、古い家を守り続けてきた一人である。


図1、久須師神社から古民家までの配置


図2、久須師神社から古民家までの連続立面

建物の間取りは、奥座敷の上を中2階に増改築しているものの、三陸沿いの伝統的な広間型三間間取りをしっかりと維持し続ける家である。「朗 すまいとくらしの雑誌」に出島が特集された時、当時の間取りも掲載された(図3)。


図3、昭和35年ころの間取り

その平面を見ると、明治15年に建てられてからほとんど変化を見せない様子が確認できる。この家はスレート葺きだが、昭和30年代頃は杉皮葺きの上に石を一面にのせた屋根であった。間取りと共に掲載された写真からわかる。

道側に設けられた玄関は建物正面の右側にあり、玄関を入るとすぐ土間になる。土間の左隣が12畳のオカミ(座敷)。オカミの左隣が6畳のザシキ(奥座敷)、その奥に4畳半の納戸が設けてあった。便所は外にあり、それは当時と変わらない。江島を歩き回っていると、そのような小さな外便所を発見する。家の前の細い道は洗濯物の干し場であり、魚を干物にするスペースにもなる。江島は、漁で得た財を投入して、急な斜面を巧みに利用しながら実に興味深い集落空間をかたちづくってきた。

 

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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