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まちと住まいの空間【三陸のまちと住まい編1】

第10回 雄勝十五浜と廻船で江戸と繋がる浜の名主たち(2/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/03/27

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別家した阿部家の台頭と四代・阿部源左衛門


写真2、阿部源左衛門家に残されていた棟札

4代目阿部源左衛門が生きた19世紀の前半。この時代に、新しいタイプの商人が登場しており、彼はその代表といえる。第一別家として最初に別家した初代の阿部源左衛門は不明な点が多い。明和4(1767)年に生まれた2代目阿部源左衛門は66歳で亡くなる。だが、寛政元(1789)年生まれの3代目阿部安之丞は39歳と比較的早く亡くなった。そして、4代目阿部源左衛門が文化12(1815)年、父・安之丞が26歳の時に生まれる。2代目と3代目が廻船で活躍する化政期は、江戸の食文化を変えた時期である。それには太平洋側の廻船ルートの充実があった。土佐の鰹節、蝦夷の昆布に比べ品質が落ちるにしても、三陸の鰹節、昆布を江戸に安価で大量に運び入れることを可能にした。一方、奥州の大豆が三河・尾張地域に運ばれ、瀬戸内海産の塩とドッキングすることで、味噌(赤ダシ、八丁味噌)、醤油(タマリ醤油)の生産を活発化する。これらの動きは、江戸のにぎり寿司、天ぷら、うなぎの蒲焼の考案を可能にした。

別家である阿部源左衛門家は、4代目阿部源左衛門の活躍によって、1836(天保7)年から15年間に巨額の富を築く。大須浜の阿部家が江戸に知られるようになったのもこのころである。昭和59(1984)年に建て替えたという阿部源左衛門家には、天保7(1836)年4月(旧暦)と建築年月が明記された棟札が大事に保管されていた(写真2)。

ヒアリング調査で得た話と照合すると、大須浜では少なくとも江戸時代後期まで古い建築が遡れる。阿部源左衛門家本家を継承し続ける方たちに、江戸時代に建てられた建物の記憶を辿っていただき、その話をもとに簡単な平面図を起こすことができた。典型的な「広間型三間間取り」の建物がよみがえる(図2)。

4代目源左衛門の代には、数百石積みの船2隻、後に75石積みの船を建造し、地先漁業とともに、米をはじめ日用雑貨、海産物の商いで巨大な利を得た。ただ大須浜は良港でなく、地元の浜に大型船を碇泊させることができなかった。親船が常時停泊する港は船宿がある船越浜で、4代目阿部源左衛門は船越浜の清水屋を定宿とした。また阿部家の古文書で廻船帳簿はあまりなく、慶応期(1865~68)の2年分の「通元丸勘定帳」が唯一残されており、この時期の発着港はいずれも石巻に近い牡鹿半島の小竹浜だったことがわかっている。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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