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まちと住まいの空間

第9回 京都府伊根町――山の稜線に包まれ内海の風景(2/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/02/27

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いま一つは、急な斜面に山側から海に向かって、あるいは等高線に沿って延びる道である。こちらのほうは古くからあり、前者は集落から寺社へのアプローチの道で、海からのランドマークを誇示する寺社の屋根に向かって階段状の急な坂が延びる。後者は海が荒れた時に集落と集落を結ぶ。内海の船上から見えた坂の途中には、山へと入り込む路地が枝分かれし、この要所にいまも使われている井戸が確認できる。井戸のある場所から海のほうへ振り返ると、内海に向かって通された路地の先に、海の青さが目に飛び込む(写真3)。旧道はさらに路地を延ばし、山と海を結んでいたのだ。


写真4、祭りの行われる空地

祭の時、参道から檜舞台の海に出てパフォーマンスをする。地上では神輿が歴史を積み重ねた濃密な空間を巡る。「ニワ道」を辿ることで各戸が身近に祭と一体化する。道と道が出合うちょっとした空地で祭を繰り広げる(写真4)。単に車のすれ違える広い道路が整備されたわけではなかった。変化のなかに、伊根独自の仕組みをより活性させてもいることに驚かされる。

共労するくらしのペイジェント


図1、伊根の集落構成と寺社の分布

現在八つの地区で構成する伊根のはじまりは、高梨(亀島村)とされる。亀島村と平田村の村境にある貞永元(1232)年創建の八坂神社が二つの村祭の場となる。神社を共有するのは奇異に感じるが、村の発生起源が同じであれば無理からぬことだ。江戸時代の初め頃までには、亀島村(高梨)と平田村、そして八坂神社を村社として分社した日出村が「伊根三ヶ村」と総称されるようになる(図1)。

亀島村は、後に内海の対岸に高梨から立石、耳鼻、亀山に集落を拡大する。明治期の小学校の成立と展開の様子を探ると、これらの村々が辿った経緯と重なる。伊根では、明治5(1872)年の学制発布を受けて、翌年に亀島・平田・日出が連合して、八坂神社に隣接する高梨の大乗寺(1601年、真言宗から日蓮宗に転宗)を校舎とする。近代の学校教育がはじまる。小学校は後に三つに分かれ、高梨の他に、日出と合同して平田に、そして後に立石・耳鼻・亀山に置かれた。

伊根の海では、江戸時代から鰤漁が中心となる。昔の漁法は麻縄の刺網を使い、各戸が個別に漁をしていた。16世紀の終わりころには、「鰤運上」のはじまりとともに、丹後を制圧した越中を支配する細川氏から越中網を使った集団漁撈の手法が伝えられた。その時、漁撈も個から集団に変化する。亀島村は高梨と、内海を隔てた立石、耳鼻、亀山の四地区が独自に個別集落を形成する一方、漁撈を介した共同体を構築する。

漁法の集団化は、さらに伊根の自然環境と結びつく。内海に迷い込んだ鯨を亀島村の漁民が総出で外海への逃げ道を絶ち、集団で囲い込み、追い詰めるダイナミックな漁を展開する。目を見張る伊根の鯨漁は、長い共同体の歴史を維持してきた具体像として表現されたのだろう。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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