2つの伊達家②――宇和島藩「四賢侯の一人」伊達宗城
菊地浩之
2021/11/26
伊達宗紀/Public domain, via Wikimedia Commons
伊達政宗の「庶長子・秀宗」の活躍で成立した伊予宇和島藩
伊達家というと、多くの方は伊達政宗→仙台というイメージがあるのではないだろうか。しかし、もう1つの伊達家、伊予宇和島の伊達家がある。
2つの伊達家①――仙台・伊達家、鎌倉時代から続く名門を飛躍させた家祖・朝宗から独眼竜・政宗、幕末まで
伊達政宗が陸奥仙台藩の初代藩主となり、2代藩主には正室の子・伊達忠宗を指名した。しかし、政宗には庶長子・伊達秀宗がおり、大坂冬の陣の功績などで慶長19(1614)年に伊予国宇和郡10万石を与えられた。秀宗は翌元和元年に宇和郡板島に入り、板島の地を宇和島と改称し、居城・板島丸串城を宇和島城と改めた。伊予宇和島藩の成立である。
宇和島藩は仙台藩から分知して(所領を分けて)成立したわけではないので、分家ではなく、仙台藩とは独立した藩と称しているが、仙台藩から見ると分家ということとなる。しかも、秀宗は立藩にあたって、父・政宗から多額の借金(6万両といわれる)をしていた。
ところが、秀宗はこの借金を祝い金くらいにしか考えておらず、返却する気がなかったらしい。仙台藩から返還要請が来て、宇和島藩は大いに驚き、上へ下への大騒動になったが、家老・山家(やんべ)清兵衛の献策で10万石のうち3万石を政宗の隠居料として納めることで片が付いた。家臣は減俸を余儀なくされ、山家に対する批判が強まり、秀宗の密命で刺客が遣わされ、山家一族を惨殺してしまった。
事件を知った政宗は激怒して秀宗を勘当し、「伜(せがれ)は大虚(うつ)けなので勘当した。とうてい10万石を治める器ではないので、10万石を召し上げてほしい」と幕府に願い出た。訴えを聞いた幕府も困惑し、結局、大老・土井利勝が将軍に上奏せず、うやむやにしてしまったという。なんという日本的な解決法なのだろう!
陰に陽に活躍した「四賢侯」伊達宗城
なんといっても、宇和島藩を有名にしたのは幕末の8代藩主・伊達宗城(むねなり、1818~1892/菅原大吉)である。宗城は島津斉彬(なりあきら)、松平春嶽(しゅんがく/要潤)、山内容堂(ようどう/演:水上竜士)とともに「四賢侯」と呼ばれた幕末の名君である。
しかし、宗城は元々宇和島藩主の家柄ではない。3000石の旗本・山口直勝(なおかつ)の次男として生まれた。
7代藩主・伊達宗紀(むねただ)はなかなか嗣子に恵まれず、幕府から薩摩藩主・島津重豪(しげひで。11代将軍家斉の岳夫)の13男を養子に迎えてはどうかと持ち込まれる。宇和島藩はこれを断ったものの、今度は老中・水野忠成(ただあきら)から将軍・家斉の子を養子にしないかと勧められてしまう。
そこで宗紀は、伊達家の血を引く一族からめぼしい人物を見定めて養子に迎えることに決めた。それが、従兄弟・山口直勝の子、宗城だったのである。
宗城はその期待以上の名君だった。洋学への造詣深く、しかも実践派であった。高野長英や村田蔵六(大村益次郎)を招いて西洋兵書の翻訳、砲台建築に従事。島津斉彬が蒸気船建造に着手したと聞くと、船大工らを長崎に派遣して蒸気船の建造を試みた。さらにマッチの製造、天然痘の種痘を施す実験なども行っている。
また、宗城は外様大名のなかでもリーダーシップを発揮し、老中・阿部正弘(演:大谷亮平)に信頼され、その依頼や相談にしばしば乗っていたという。嘉永元(1848)年の土佐藩主急死にともなう山内容堂の藩主就任を陰ながら支援し、翌嘉永2年に長崎警備を分担する福岡藩と佐賀藩の間に起こった問題を調停し、嘉永4(1851)年には薩摩藩主・島津斉興の引退、世子・斉彬の藩主就任に尽力している。いわば、幕府老中が表立って動けない案件を景でサポートする裏方だったのだろう。
このように伊達宗城は才能恵まれた雄藩大名との交流を深めていき、それが「将軍継嗣問題」で一橋徳川慶喜の擁立へとつながっていく。そして、それが裏目に出た。
大老・井伊直弼とも親戚筋だった宇和島伊達家
井伊直弼が大老に就任して「安政の大獄」で反対勢力を弾圧すると、宗城も一橋派の有力者として引退を余儀なくされた。ただし、宇和島伊達家の藩祖・秀宗が、井伊家の祖・井伊直政の娘婿だったので、親戚筋にあたる直弼としては穏便に事を収めたく、依願引退という形を取った(それゆえ、松平春嶽や山内容堂から裏取引があったのではないかと疑われたという)。
養父の宗紀には引退後に生まれた実子・伊達宗徳(むねえ)がいた。宗城は引退にともない、宗徳に家督を譲った。しかし、井伊直弼が桜田門外の変で斃れると、政治の表舞台に度々復帰した。
文久4(1864)年、松平春嶽の提案で参与会議が開催されると、宗城は松平春嶽、一橋徳川慶喜、会津松平容保、山内容堂、島津久光とともに朝議参与に任ぜられ、そのメンバーとなった。また、慶応3(1867)年12月に王政復古の大号令が発せられると、伊達宗城は明治新政府の議定(ぎじょう)職に任ぜられ、翌慶応4年1月に外国事務総督、2月に外国事務局卿を務めている。明治新政府は薩長に偏った人選でないことを知らしめるために、旧大名を要職に就けようとしたが、そもそもそれに適した人物が少なく、宗城は重宝されたのだ。
幕末・明治の活躍で仙台伊達家と家格が逆転
しかし、宇和島藩10万石は、大藩の薩長土肥に比べて圧倒的に財力が乏しく、幕末には財政危機的な状況に陥り、戊辰戦争に勃発すると「非戦中立」の旗を掲げ、表舞台から退いていく。
宇和島伊達家の家督は本家筋の宗徳が継いでしまったため、宗城の子どもたちは藩主になる機会を奪われた。しかし、幸いにも宗城は名君だったので、大名各家から養子の引き合いが多かった。そのうちの一人、宗城の次男・伊達宗敦は、本家の仙台藩主・伊達慶邦の養子になった。
その仙台藩が戊辰戦争で敗退すると、宗城は仙台伊達家の存続に奔走。明治2(1869)年、宗城は箱館戦争への派兵を拒否した責任を取って議定を免職されたが、親友・松平春嶽の推挙で、民部卿兼大蔵卿として復職している。
明治4(1871)年に宗城は全権大使として清国(現 中華人民共和国)にわたり、李鴻章を相手に日清修好条規の締結にあたるが、西洋並みの特権を得ることができず、政府閣僚から非難され、公職から退いた。
明治17(1884)年に華族令が発せされると、仙台伊達家・宇和島伊達家はともに伯爵に列した。仙台伊達家は旧領が62万5600石だったので侯爵(ナンバーツー)に相当するが、減封後の28万石が伯爵(ナンバースリー)相当だった。
そして、明治24(1891)年に宇和島伊達家は宗城の功により侯爵に陞爵(しょうしゃく。ランクアップ)すると、仙台藩伊達家はこれを不満に抱き、何度か侯爵陞爵を運動したが、叶わなかったという。
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この記事を書いた人
1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。