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阿部家――江戸幕府老中を多々輩出した名門のはじまりと維新の生き残り(2/3ページ)

菊地浩之菊地浩之

2021/09/19

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清康の叔父が岡崎城を乗っ取って、清康の遺児(家康の父・松平広忠)を追放。広忠に許された阿部大蔵ら数人が広忠に従って伊勢・遠江らを放浪し、岡崎城への還住を成功させた。阿部大蔵はその功績から奉行人筆頭の地位にあって絶大な権限を有したという。 

今川義元に可愛がられ、家康からは今一つだった阿部正勝

よく知られているように、家康は幼少の頃、織田・今川家の人質生活を送っていた。

松平家は東に今川、西に織田の強国に挟まれ、広忠が今川家に支援を求める代わりに、嫡男・竹千代を今川家の人質に送ったのだ。ところが、竹千代は護送途中で織田方の手に落ち、織田家の人質にされてしまう。

お付きの家臣(人数には諸説あるらしいが、28人だという)は大幅に減らされて、2人だけに絞られた。一人が平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)、家康と同い年で生涯親友だったようだ。そして、もう一人が阿部正弘の先祖・阿部正勝である。

実は阿部家の初期の家系図は混乱していて、阿部大蔵と正勝の具体的な血縁関係は分からない。しかし、筆頭家老の親族がお目付役に付けられたと考えるのが妥当な線だろう。

竹千代が今川家の人質になると、今度はお付きが8人に増えた(その後増員・交代があったらしい)。ここでも平岩親吉・阿部正勝が付き随った。

ただし、阿部正勝に対する家康の評価はそんなに高くなかったらしい。

実際、1590年に秀吉の命で家康が関東に国替えさせられた際、平岩親吉は家康より3万3000石を賜るが、阿部正勝は5000石だった。

阿部正勝は家康より1歳年長で、今川家の人質時代には今川義元に気に入られ、今川家家臣の娘と結婚したという。今川義元が小学校の先生だったら、阿部正勝は生徒会長。品行方正で、ときには厳しく生徒を指導する。物静かな生徒・家康クンは親友の平岩とふざけあっては、生徒会長に叱られて——といった感じだったに違いない。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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