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阿部家――江戸幕府老中を多々輩出した名門のはじまりと維新の生き残り

菊地浩之菊地浩之

2021/09/19

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阿部正弘/published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association), Public domain, via Wikimedia Commons

26歳で幕閣トップになれた理由

NHK大河ドラマ『青天を衝け』にも出てきた老中・阿部正弘(演:大谷亮平)。

1840年に21歳(満年齢)で寺社奉行に任じられ、大奥の女中数人が僧侶と密通した事件を隠密裏に解決したことで、12代将軍・徳川家慶(演:吉幾三)に評価された。1843年に24歳で老中に就任。天保の改革の失敗で失脚していた水野忠邦の老中首座復帰に猛反対して罷免に追い込み、1845年に26歳の若さで老中首座となった。当時は大老が置かれていなかったので、老中首座は幕閣のトップ。今でいう総理大臣である。

正弘は諸大名と積極的に交流を行い、川路聖謨(かわじ・としあきら/演:平田満)などの人材を登用した。1853年にペリーが浦賀に来航すると、開国を決意し、諸大名から広く意見を求め、朝廷にも意見を伺うなど国論統一に腐心、翌1854年日米和親条約を締結した。1857年にわずか38歳で急死した。

正弘がわずか24歳で老中に登用されたのは、彼自身が有能だったからにほかならないが、歴代当主が老中を歴任した阿部家出身であったことも大きい。

家康の祖父の時代から仕えていた阿部家

阿部家は家康の祖父・清康(きよやす)の時代から徳川(旧・松平)家に仕えた家柄で、現在の愛知県岡崎市小針町に居を構えていたという。

清康が生まれた松平家は安城市近郊を治めていたが、清康は一代で三河全土を制圧して岡崎城を居城に定め、隣国尾張の守山(名古屋市守山区)にも攻め入った。清康の家臣・阿部大蔵(おおくら)は、反清康派と疑われ、自分がもし成敗されたら免罪を雪(すす)いでくれるように、息子・弥九郎に伝えていた。陣中で馬が暴れたとき、弥九郎は父・大蔵が討たれたと勘違いして、清康を刺殺してしまう(守山崩れ)。

清康の叔父が岡崎城を乗っ取って、清康の遺児(家康の父・松平広忠)を追放。広忠に許された阿部大蔵ら数人が広忠に従って伊勢・遠江らを放浪し、岡崎城への還住を成功させた。阿部大蔵はその功績から奉行人筆頭の地位にあって絶大な権限を有したという。 

今川義元に可愛がられ、家康からは今一つだった阿部正勝

よく知られているように、家康は幼少の頃、織田・今川家の人質生活を送っていた。

松平家は東に今川、西に織田の強国に挟まれ、広忠が今川家に支援を求める代わりに、嫡男・竹千代を今川家の人質に送ったのだ。ところが、竹千代は護送途中で織田方の手に落ち、織田家の人質にされてしまう。

お付きの家臣(人数には諸説あるらしいが、28人だという)は大幅に減らされて、2人だけに絞られた。一人が平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)、家康と同い年で生涯親友だったようだ。そして、もう一人が阿部正弘の先祖・阿部正勝である。

実は阿部家の初期の家系図は混乱していて、阿部大蔵と正勝の具体的な血縁関係は分からない。しかし、筆頭家老の親族がお目付役に付けられたと考えるのが妥当な線だろう。

竹千代が今川家の人質になると、今度はお付きが8人に増えた(その後増員・交代があったらしい)。ここでも平岩親吉・阿部正勝が付き随った。

ただし、阿部正勝に対する家康の評価はそんなに高くなかったらしい。

実際、1590年に秀吉の命で家康が関東に国替えさせられた際、平岩親吉は家康より3万3000石を賜るが、阿部正勝は5000石だった。

阿部正勝は家康より1歳年長で、今川家の人質時代には今川義元に気に入られ、今川家家臣の娘と結婚したという。今川義元が小学校の先生だったら、阿部正勝は生徒会長。品行方正で、ときには厳しく生徒を指導する。物静かな生徒・家康クンは親友の平岩とふざけあっては、生徒会長に叱られて——といった感じだったに違いない。

阿部家当主が代々家老を務めるようになったはじまり

江戸幕府の老中が制度として発足・定着したのは、3代将軍・徳川家光の頃らしい。

家光は側近6人に政務を任せ、かれらは「六人衆」と呼ばれ、のちの若年寄の原型となった。その6人とは松平信綱、堀田正盛、太田資宗(すけむね)、三浦正次(まさつぐ)、阿部重次(しげつぐ)、阿部忠秋である。このうち太田を除く5人が老中に昇進した。

三浦正次は三浦姓を名乗っているが、阿部正勝の長男で、阿部重次は正次の長男。阿部忠秋は正勝の次男・阿部忠吉(ただよし)の次男である。つまり、「六人衆」のうち、3人が阿部家の人間だったということだ。先例重視の江戸幕府では、阿部家の当主が代々老中を務めた。

維新にあたっての名門の生き残り策

時代は降って幕末。

阿部正弘には嗣子がなかったので、甥・阿部正教(まさのり)を養嗣子としたが、わずか4年後の1861年に死去。跡を継いだ実弟・阿部正方(まさかた)も1867年11月にわずか19歳で死去してしまい、無嗣廃絶の危機に瀕した。

その前月、15代将軍・徳川慶喜(演/草なぎ剛)が大政奉還したばかり、明治新政府は阿部一族以外から養子を迎える条件で、阿部家の存続を許した。薩長藩閥としては歴代老中を輩出した阿部家の勢力をそいでおきたい思惑があったのだろう(阿部家の発案という説もある)。

かくして、正弘の6女・寿(ひさ)に広島藩浅野家から婿養子・阿部正桓(まさたけ)を迎え、1868(明治元)年7月に家督相続を果たした。

阿部家としては、女系でもいいから血筋が繋がることを期待して、正桓を婿養子にしたのだが、寿が男子を得ぬまま死去してしまう。そこで、正桓の子・阿部正直には阿部一族から妻を迎え、やっと阿部家の血筋を残したという。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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