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毛利家――中国地方の覇者の戦国・江戸・幕末の浮き沈み、そして維新後(2/2ページ)

菊地浩之菊地浩之

2021/03/16

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幕末の藩主は「そうせい様」と陰口を言われた暗君?

長州藩は薩摩藩と並んで明治維新の原動力になったが、その藩主のキャラクターは全く異なるものだった。

明治維新の時、薩摩藩主は島津忠義だったが、実権はその父・島津久光が握っていた。維新後、久光は明治新政府に不満をぶつけて厄介者扱いされたが、毛利敬親、元徳父子は明治新政府の方針に極めて従順だった。

毛利敬親(たかちか、初名・慶親[よしちか]、1819~1871)は、家臣の言うことに対して何でも「そうせい」と答えることから、「そうせい様」と陰口をたたかれていた。ただし、要所では決断し、明確な指示を与えており、決して凡庸な暗君とは思えない。また、維新の功臣・木戸孝允は、旧主・毛利元徳に対して頻繁に報告していたといわれているが、これも元徳が「聞く耳」を持った藩主だったからであろう。

ただし、余りに従順なことは欠点にも繋がる。

長州藩出身の井上馨は「旧藩主毛利家に人物(=有為な人材)のいないのを憂え、人物育成のため」寄宿舎を建て、他家の子弟と一緒に教育しようと考えた。その寄宿舎には、マレーの虎狩りで有名な徳川義親(よしちか)、旧皇族・北白川宮、公卿の西園寺・三条、三井・藤田・鴻池財閥の子弟らが在籍していたという。

維新後の毛利家

1868年、毛利元徳は明治新政府の議定(ぎじょう)職に任ぜられ、版籍奉還で1869年に山口藩知事に任命されたが、1871年の廃藩置県で藩知事を免ぜられ、東京に移住。1884年に公爵に列した。また、華族資本の第十五国立銀行頭取にも就任している。

1877年、毛利家を後見していた木戸孝允が死去すると、翌年に毛利家は井上馨、宍戸璣(ししど たまき)、杉孫七郎、山田顕義(あきよし)らを家事忠告人に選任した(のちに伊藤博文も任命されたが、熱心でなかったという)。大名家は維新後も政治的・経済的にバックアップしてもらうべく、出世した藩士を顧問に迎えて家産の形成を図っていたのだ。

井上馨は「三井の大番頭」と皮肉られたくらい新政府きっての財政通だったので、その才能を遺憾なく発揮し、毛利家の財政基盤確立に尽力した。井上は投機を避け、「有利な諸会社銀行」の株式を購入するとともに、旧長州藩士・藤田伝三郎が興した藤田組(現 DOWAホールディングス)や九州の炭礦財閥・貝島家への融資を斡旋した。

元徳の子・毛利元昭(もとあきら、1865~1938)は、拠点を防府市に移した。俗に「旧毛利邸」と呼ばれるもので、邸内に毛利博物館が設立されている。その子孫も日本ユネスコ協会連盟中央委員、財団法人毛利報公会会長などに就任している。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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