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上杉家――鎌倉、室町、戦国、江戸、幕末…名門の紆余曲折(2/2ページ)

菊地浩之菊地浩之

2020/10/12

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無嗣廃絶を免れるため、吉良上野介の子どもを養子に

慶長5(1600)年、景勝は関ヶ原の合戦で家康に反したため、出羽米沢30万石へと4分の1に減封されてしまう。しかも、寛文4(1664)年にその孫・上杉綱勝(つなかつ)が子がないまま急死し、御家断絶の危機にさらされる。

幸い綱勝の義父・保科正之(ほしな まさゆき。将軍・徳川家光の異母弟)が幕府の有力者であったことから、正之の尽力により、綱勝が妹の子・綱憲(つなのり)を生前養子に指名していたと、でっち上げて無嗣廃絶を免れた。ただし、その代償は大きく、また15万石に半減されてしまう。綱憲の実父は、かの悪名高き吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしなか)だったので、米沢では忠臣蔵が上演されなかったという。

綱憲の孫・上杉重定(しげさだ)にはなかなか男子が恵まれなかったので、従姉妹の子・上杉治憲(はるのり。号・鷹山:ようざん)を婿養子に迎えた。鷹山は藩政改革を成功させ、治憲の男子が産まれるとその子に家督を譲り、名君と讃えられた。

鷹山を有名にしたのは、来日した米国ケネディ大統領が、尊敬する日本人に鷹山の名を上げたことだ。当時は新聞記者でも上杉鷹山の存在を知らず、「ヨーザン フー」の状態だったという。その後、米沢藩は内政良好を讃えられ、3万石を加増されている。

幕末、会津藩が賊軍とされ、米沢藩・仙台藩に会津藩征討を命じると、両藩は逆に会津赦免を願い出て奥羽越列藩同盟を結成した。米沢藩は、会津藩の祖・保科正之にかつて無嗣廃絶の危機から救ってもらったことを忘れなかったのだ。ちなみに、仙台藩も、有名な伊達騒動を正之が穏便に収めてくれていたから、その恩義に報いたのだという。

とってもいい話なのだが、世の中はそんなに甘くなかった。両藩は戊辰戦争に敗退し、米沢藩は14万7000石に減封され、仙台藩に至っては62万石を28万石に減封されてしまったのである。

 

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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