まちと住まいの空間 第36回 ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり⑦ ――関東大震災から6年、復興する東京(『復興帝都シンフォニー』より)
岡本哲志
2021/05/18
本稿(第36回)からは2回連続で関東大震災後の昭和初期に製作された記録映画を語ることにする。
今回は昭和4(1929)年に製作された『復興帝都シンフォニー』、次回(第37回)が昭和7(1932)年に製作された『東京の四季』である。この2作品は、製作時期が3年前後する。僅かな年月の違いだが、その映像に残された風景も人々の表情も異なる。
関東大震災で壊滅的な打撃を受けた東京、特に下町は地震後の大火で都市風景を一変させた。
大正6(1917)年製作とされる『大正六年 東京見物』に映された東京下町の都市風景はほとんどが消え去り、その焦土の上に新たな都市空間が再構築されていった。変化し、あるいは変化しなかった東京の姿を2つの記録映画がとらえており、昭和初期の東京がつぶさによみがえる。
復興する帝都の中心・東京を演出する映像の編集
『復興帝都シンフォニー』は財団法人東京市政調査会が昭和4(1929)年に製作した記録映画である。この映画のオリジナル上映時間は36分とされており、私が観たのは4分短縮されたものだった。
市政会館は、日比谷公園東南の一角に日比谷公会堂と併設され、昭和4(1929)年10月19日に完成した。この建物は、帝都復興計画を主導した後藤新平(1857〜1929)の肝いりで新たに設置された地方自治を調査・研究する機関・財団法人東京市制調査会が入る施設として建設された。その開館を記念し、関東大震災後の東京復興を解説する「帝都復興展覧会」が落成した日から1カ月間開催され、展覧会のためにこの記録映画が製作された。映像には、東京だけでも100を超すシーンがあり、関東大震災で甚大な被害を受けた横浜も登場する。今回、横浜部分については割愛するが、距離が離れている東京と横浜を映像でうまくつないでいる。この当時の横浜との関係を少し述べておきたい。
映画で東京から横浜に切り替わるシーンは、隅田川河口部を行き来する数多くの船、建設が進む東京港からはじまる。東京湾を船が南に向かい横浜へ行く雰囲気を演出したうえで、神奈川県庁屋上から望む横浜港の全容に切り替わる。
横浜から東京への戻りは、明治5(1872)年はじめに走った「陸蒸気」の時代から鉄道で強く結ばれた陸のルート、東海道本線が強調された。スタート地点になる桜木町駅(旧横浜駅)は、明治5年に竣工したリチャード・ブリジェンス設計の駅舎だったが、関東大震災で焼失。昭和2(1927)年に新築されたものだ。映像ではホームに待機する電車が出発し、東京に向かう。多摩川を渡り、品川駅に至るところで鉄道のシーンが終わる。フィルム全般を通じて、新橋駅も、東京駅も映像として登場しないが、これで横浜から東京へとシーンを展開させているわけだ。
さて、この映画は何を目玉の映像として復興する、あるいは復興した東京の光景を描こうとしたか。映画は2つの視点から構成させている。
ひとつは、100を超えるシーンをおおむね5つのカテゴリーに分けて復興の特色を示せる点。いまひとつは、各カテゴリーのなかでも特にじっくりと長く映し出すシーンがあり、そのシーンがこの映画で強調したい光景が浮かび上がってくるのだ。こうした長めのフィルムは全部で10シーンあり、見応えがある映像ばかりである。
図/今回登場した街、建築などの場所(映画に登場した全ての場所を網羅しているわけではない)
都市空間を表現する「街、通り、建築」
5つのカテゴリーの一つ目は、都市空間を表現する「街、通り、建築」である。「街」としては丸の内、「通り」は銀座通り、「建築」は国会議事堂を特に取り上げる。
この映画で「街」としての露出度は、丸の内が断然トップ。その映像も東京駅ホームの通勤ラッシュにはじまり、東京駅南口からサラリーマンが行列をなし、市電やバスが往き来する合間を縫い丸ビルに吸い込まれるシーンへ展開する。その丸ビル右奥には鉄骨の骨組みが見え、これは昭和5(1930)年竣工する東京海上ビル新館が建設途中の模様だ。丸の内では、多くの建物が震災前と変わらずに機能しており、被災した官庁、銀行、商店などが仮住まいの場を求めて押し掛けた。
人を主体とすると、丸の内の映像は復興のシンボルというより、関東大震災前の街並みが充分絵になり、生活を取り戻した人々の生き生きとした姿を描く背景として使われた。興味深いのは、消防自動車を丸の内ビル街で疾走させるシーンが長いことだ。これはすでに不燃化している丸の内を走り、火災の猛威に打ち勝つ近代的な消防自動車をアピールしたかったのか。
「通り」は、知名度から銀座通りが主役にすえられたようだ。銀座は東京のどこの街よりも早く復興に取りかかる。実業家であり、小説家、評論家、劇作家でもある水上滝太郎(みなかみ たきたろう)の『銀座復興』(1931年、「都新聞」1928・29年連載)は、そうした銀座の人たちの力強さが描かれている。
大正10(1921)年に街路整備がなされてからわずかな2年で関東大震災が起き、銀座通りは再び街路整備が行われた。その舗装を見て驚かされる。
当時は銀座通り車道の一部が西欧の古都や神楽坂で見られるピンコロ石で敷き詰められたからだ。ひとつひとつ石を並べる石工作業の光景も興味深い。
写真/ピンコロ石で舗装する光景、『日本地理大系 大東京篇』(改造社、1930年)
これほどの手間と時間をかけて、当時の銀座通り車道が舗装された。映像は建物の復興が進む銀座通りの街並みへと展開していく。
銀座尾張町(現・銀座五丁目)の伊東巳代治貸店舗(1924年竣工)、銀座三丁目の松屋(1925年竣工)など、新築した建物をメインに銀座三丁目から五丁目の街並みが撮影されている。しかし、昭和7(1932)年に竣工する今では銀座のシンボルな存在の時計塔を冠した現在の和光(服部時計店)はまだ姿をあらわしていない。しかも、工事現場の服部時計店を画像はスルーしており、銀座通りの復興はまだ半ばだと感じさせる。
関東大震災後の瓦礫となった東京には数多くの近代建築が建てられ、東京の風景を近代化させた。
そのなかで、復興半ばの昭和4(1929)年という時代を力強く表現する「建築」として、クローズアップしているのが国会議事堂である。この建物は再び関東大震災級の巨大地震が東京に起きてもびくともしない健剛なつくりであり、大正9(1920)年の着工から、関東大震災を挟んだとはいえ実に16年の歳月をかけて完成(1936年に竣工)する。
映画では建設途中の姿である。
写真/完成前の国会議事堂、『日本地理大系 大東京篇』(改造社、1930年)
加えて、国会議事堂前やその周辺では大規模な再開発が行なわれており、工事現場の映像も長く撮り続けた。国を象徴する国会議事堂の建設だけでなく、東京という都市が新たによみがえろうとする過程が映像となっている点が興味深い。
整いはじめる近代都市のインフラ
二つ目は、鉄道、道路、上下水道などの「都市のインフラ」である。交通系では鉄道が最優先で復旧したが、市電は遅れた。それに替わり、乗合バス、地下鉄が脚光を浴びる。
地下鉄は昭和2(1927)年に上野~浅草間で開通した。雷門地下鉄乗場を併設した近代的なビルが姿をあらわし、カメラも建物の夜景を新名所として映し出す。
しかしなんといっても、関東大震災後の交通系インフラでは船が最も活躍した。復興の功労者である船を讃えるように、映画はさまざまな船を随所で登場させる。船の行き交う川には、帝都復興の象徴として近代橋梁が新しく架設された。
その数は、東京市が312橋、復興局が113橋と、全体で425もの数にのぼる。しかも同じデザインが一つもない。当時の技術力の高さとともに、優れたデザイン能力が光る。
渓谷のような神田川を跨ぐ聖橋は、その高低差を配慮したデザインが絵になり、絵葉書にも数多く登場した。優れたデザインが目白押しの近代橋梁だが、カメラは清洲橋を船上と地上、さまざまな角度から美女のモデルを撮影するかのように造形の魅力に迫る。
道路は、既成市街地を貫き新たに誕生した昭和通りが目を引く。
絵葉書/完成した昭和通り
広幅員だが、植樹された中央分離帯が設けられ、道沿いにはモダンな街路に合わせるように近代建築が次々と建つ。昭和通りは、東京の復興を象徴する都市風景と映ったに違いない。自動車に搭載されたカメラは気持ちよさそうに新しい街並みを撮り続けた。
都市インフラの上下水道、ゴミ処理は、近代化する社会や庶民生活を根底で支えた。江戸時代、江戸はゴミゼロの都市といわれる。「ちり」や「ほこり」を除けば、現代人がゴミにしているほとんど全てがリサイクルされていたからだ。人の糞尿は近郊農家の肥料に、生ゴミも飼料となった。それが昭和初期には江戸時代の資源はゴミとなり、下水処理、塵芥処理されるようになる。三河島汚水処理場(1922年3月完成、日本初の下水処理場)や洲崎埋立地塵芥処分場などの映像に多くの時間がさかれる。これもまた、巨大都市化する近代東京の新しい風景といえよう。
写真/塵廃処理場、『建築の東京』(都市美協会、1935年)
学校、住宅、病院、市場、デパート…生活の復興
三つ目は「生活の復興」。学校、住宅、託児所、病院、市場、デパートなど、多彩な施設が取り上げられるが、特定した場所をクローズアップさせてはいない。さまざまな施設をオムニバスのかたちでちりばめ、多様な復興がなされたイメージ効果を狙う。
学校施設のうち、復興した小学校は117校あった。市街が密集して広い敷地を得られないため、公園とセットに小学校が整備された。校舎もそれぞれに工夫を凝らし、斬新なデザインで復興する。
「住」に目を向けると、復興事業として立ち上げられた同潤会は、鉄筋コンクリートによって不燃化され、住宅内には、電気・ガス・水道はもちろん、ダストシュートや水洗式便所といった近代的な設備を整えた。
同潤会建築部長(1924〜28)には、三菱地所の川元良一が就任。近代生活の新しい住まい方を提示し、三菱地所で培った建築技術や衛生の知識を遺憾なく建築に反映させ、最先端の居住環境を創出させた。
このため都市生活者の利便のために用意された居住空間は人気があった。映画には表参道沿いにある渋谷同潤会アパートメント(青山同潤会アパートメント、1926・27年、現・表参道ヒルズ)に住むサラリーマンの出勤風景が映像として収められ、この新しいライフスタイルに憧れ、エンジョイする人たちも多く映し出されている。
同潤会の試みは単に新しい生活様式の提案だけにとどまらず、スラム地区対策(不良住宅改良事業)としてアパートを1カ所建設した。不良住宅改良事業は東京市が中心となって進められたが、同潤会も猿江裏町共同住宅(住利共同住宅、1期1927年、2期1930年、現・ツインタワーすみとし)で具体化する。
写真/同潤会猿江裏町共同住宅、『日本地理大系 大東京篇』(改造社、1930年)
映像には、最新式のアパートとして設計された敷地内には粗末な小屋の駄菓子屋があったりする。かつての下町の雰囲気が近代的な空間にいつの間にか同居していた。こちらは、窮屈に暮らさない旧来からの日常がのぞく。
東京が復興し、人々が生活を取り戻していく消費の象徴にデパートがあった。
銀座の松坂屋は大正13(1924)年、松屋は大正14年。日本橋の三越は関東大震災で焼失後の昭和2(1927)年に再建した。さらには昭和3年(第1期)、新宿の三越は昭和4(1929)年と、復興する東京に続々とデパートが開店。また、上野の松坂屋はこの映画が製作された年、昭和4年に竣工した。
映像でも旬なデパートをカメラのレンズがとらえる。なかでもこの屋上に立ち、焦土から復興する、平坦地がどこまでも広がる下町のパノラマ映像は圧巻で、フィルムも長めに撮られた。そこに収められた当時の東京は、ほんの一部の高層化した建物以外、低層木造の市街が拡大する風景の都市だった。
復興で充実させようとされた芸術・文化・スポーツ
四つ目は、復興のバロメーターでもある「芸術文化とスポーツの充実」に目を向ける。
伝統のスポーツ・芸能では、被災した両国国技館が早くも震災の翌年再建され、相撲の興行が行なわれた。歌舞伎座(1925年竣工)と新橋演舞場(1925年竣工)も昭和に入るころには興行をはじめる。
芸術・文化では、上野に東京府美術館(岡田信一郎)が昭和元(1926)年に開館し、上野の動物園も、東京が復興するなかであっても子どもたちを楽しませた。
さらに新たに神宮外苑スポーツ施設がオープンし、スポーツ熱を牽引する。神宮外苑のスポーツ施設のグランドは大正13(1924)年に完成し、野球場は昭和元年に開場となる。
絵葉書/スポーツ施設が整う神宮外苑の俯瞰
また、映像は、神宮外苑のグランドで子どもたちがデッドボール(現・ドッジボール)を競い合う姿を映し、野球場では満員のスタンドに早慶戦が繰り広げられる様子を映像化した。プロのスポーツがほとんどなかった日本で、アマチュアスポーツは花盛りとなる。
昭和15(1940)年開催予定だった幻の東京オリンピック誘致の動きは、関東大震災以前からあった。
昭和4年になると、日本学生競技連盟会長の山本忠興(早稲田大学教授、1881〜1951年)が来日した国際陸上競技連盟(IAAF)会長・ジークフリード・エドスレーム(後にIOC会長)と会談した際、日本での五輪開催の可能性が話題となり、一挙に進展する。結果的に頓挫したものの、主会場として明治神宮外苑に10万人規模のスタジアムを建設する計画もあった(1964年の東京オリンピックでは旧国立競技場が建設された)。
経済・産業の復興のシンボルはと描かれる「金融と港」
五つ目は、経済的な側面としての「産業の復興」、工場、港、証券取引所が取り上げられた。
この映画のプロローグではオムニバスに工場風景が挿入された。よく知られる千住のお化け煙突も映る。力強く始動しつつある東京の産業が強調された。
本編にも、大森東京瓦斯電気工業(いすゞ自動車、日野自動車等の前身、東京瓦斯会社〈後の東京ガス〉の機械部門が明治43〈1910〉年に独立)へ出勤する人々の姿、江東地帯の工場が活動する光景などをとらえる。
この5つ目のカテゴリーでは長めのフィルムとして3つのシーンが取り上げられた。
ひとつは株式取引所、もう一つは銀行。これらは東京の経済を支える重要な施設として、旬な2つの建物の外観・内部を取り混ぜた映像が長く撮られた。
東京株式取引所は、昭和2(1927)年に新市場館(1922年着工、円柱型の本館は1931年完成)が落成し、三井銀行本店は昭和4(1929)年に竣工する。
長めのフィルムの3つ目は、日の出埠頭と隅田川河口の船舶である。
絵葉書/日の出埠頭の切妻屋根が連続する倉庫群
関東大震災後港湾設備の重要性が認識され、大正14(1925)年日の出埠頭に切妻屋根の倉庫群があらわれた。後に、芝浦埠頭が外国・国内の貨物船専用桟橋として昭和7(1932)年に完成し、昭和16(1941)年には国際港としての東京港がオープン。それらを先取りするかのように、日の出埠頭が力強く映像化されている。まさにそのタイトルの『帝都復興シンフォニー』は、東京が復興しつつある躍動感を伝える映画である。
【シリーズ】ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり
①地方にとっての東京新名所
②『大正六年 東京見物』無声映画だからこその面白さ
③銀座、日本橋、神田……映し出される賑わい
④第一次世界大戦と『東京見物』の映像変化
⑤外国人が撮影した関東大震災の東京風景
⑥震災直後の決死の映像が伝える東京の姿
【シリーズ】「ブラタモリ的」東京街歩き
この記事を書いた人
岡本哲志都市建築研究所 主宰
岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。