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GoToトラベル 外国人観光客がいない今だからこそ、仏を感じられる京都の寺院(1/2ページ)

正木 晃正木 晃

2020/10/12

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イメージ/©︎wakomegumi・123RF

仏像は「美術作品」ではない

あまりに当たり前すぎて、いまさら指摘するのもどうかと思うが、仏像にしろ仏画にしろ、仏教にかかわる造形は、もともと崇拝対象もしくは瞑想修行のための用具であって、美術作品ではない。

仏像や仏画が崇拝対象というのは、だれでもわかる。しかし、瞑想修行のための用具というのは、わかりにくいかもしれないので、簡単に説明しておこう。

要するに、仏像や仏画をじっと見つめ、全体の形はもとより、その細部にいたるまで、心にしっかり刻みつけておく。そして、最終的には仏像や仏画として表現された仏菩薩と一つに融合して、自分自身が仏菩薩になったという意識状態に到達し、悟りの境地を実現するのである。

浄土信仰であれば、日常的に阿弥陀如来のすがたを心に刻みつけ、阿弥陀如来の存在を確証したうえで、臨終の際に、お迎えに来た阿弥陀如来にみちびかれて極楽浄土へと旅立っていくのである。

「光」がキーワード

以上のように、宗教上の要請から造形化された仏像を、もともとあった場所からもち出してきて、美術館というまったく別の環境下で、しかもフラットな光を浴びるかたちで、微に入り細に入り、鑑賞するという態度は、どう考えても「宗教的」ではない。

そもそも仏像は礼拝する、もしくは拝見する対象であって、鑑賞する対象ではない。純粋に美的な対象として鑑賞するという行為は、仏教信仰の立場からすれば、不遜の極みにほかならない。

もともとあった場所からもち出してきて……と述べたが、仏像であれ仏画であれ、もともとあった場所の大半は、ほの暗い堂内が多く、よく見えない。

私の研究対象でもある曼荼羅についていえば、曼荼羅のどこに何が描かれているか、私よりもずっとよく知っている方がいる。

それはそれでけっこうな話だが、その方が、曼荼羅がどういう状況下で使われるか、ご存じかというと、これがはなはだ怪しい。大概の場合、曼荼羅は光の差し込まない場所に設置されているので、細かいところはよく見えないのである。

この点は、仏像も変わらない。ほの暗い堂内に安置された仏像を、燈明か護摩の焔に照らされるという本来の状況下で見ると、ほとんどの仏像は金箔で覆われているために、光の塊にしか見えないはずである。

じつは、この「光の塊」という認識は、仏教の伝統からすれば、当然である。なぜなら、密教の本尊である「大日如来」は、文字どおり光の仏であり、浄土教の本尊である阿弥陀如来は、一名を「無量光仏」というではないか。

このように、聖なる存在は、光と強い親和性がある。話が前後するが、仏像が金箔で荘厳される理由も、実はここにある。

そして、「よく見えないからこそ、ありがたい。おぼろげだからこそ、ありがたい」というのが、日本人の宗教意識でもあった。美術館の展示のように、ありありと見えては、文字どおり見えすぎで、ありがたみも薄れてしまう。

こういう感性は、後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』に、

仏は常にいませども うつつならぬぞ あはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ

とうたわれていることからも確認できる。

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この記事を書いた人

宗教学者

1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。

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