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まちと住まいの空間 第25回 「ブラタモリ的」東京街歩き②――テレビを観ているだけではわからない坂道の愉しみ方(2/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2020/06/27

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自然の形状かつくられた形状かを見分ける――清水坂(東京都台東区)

第2回放送の「上野」編では、「清水坂(しみずざか)」を登場する。

しかし、この清水坂は『タモリのTOKYO――』には出てこない。タモリさんは曲線を描いてカーブする坂が好みのようだが、「清水坂」は好きな坂のひとつではないのか。あるいは、清水坂が「湾曲」していることから、番組のスタッフが絵的にもはえるこの坂を選んだのか。映像を見ただけの判断だが、タモリさんの乗りがいまひとつのように見えた。そのことから、どうも番組スタッフが選んだのではないかと思われる。

清水坂は、坂の途中にある煉瓦建築の方が坂自体よりも存在感を示している。


清水坂(上野)

この建物は、上野で行なわれた博覧会の時に走った路面電車を動かす発電所として明治期に建てられた。その後も、東京をくまなく巡る市街鉄道(市電)に電気を送り続けた。現在は、上野動物園で販売されているぬいぐるみグッズの保管場所となる。ただ、この清水坂の形状が江戸時代初期から永々と維持され続けているかと言えばそうではない。現在コンクリートの高い擁壁を右手に見て上がる清水坂は、多分に不自然な形状に感じるはずだ。

上野の寛永寺は、元禄11(1698)年に起きた「勅額の火事」後に境内地を拡大させた。東側の崖下の土地には11の子院の移転先になり、その土地が後に上野駅の構内となる。境内地の拡大はそれだけではなく、谷中・池之端の方でも見られた。この時、清水坂周辺が大きく変化し坂の形状も変わる。

清水坂の坂下には、かつて寛永寺境内に食い込むような谷戸があった。その根本から清水(しみず)が湧き、小さな川となって坂下のあたりに流れ出た。そこに寛永寺の門がつくられたことから「清水門」の名が付けられたのが旧清水門である。

しかし、宝永6(1709)年には護国院が現在地に移り、坂の形状が変化した。その時、坂上にある護国院山門近くに新しい清水門ができる。現在の清水坂は新旧の清水門を結ぶようにJの字を描いて新たに整備された。そのため谷戸の地形を消し去る坂のありかたから、何とも違和感のある坂道となった。残念ながら、形状を変える前の坂道が魅力的だったかは判断しかねる。

形状を変化させた坂の両側は、護国院の墓地と三河豊橋藩主大河内家の屋敷の木立が鬱蒼とした薄暗い空間をつくりだした。寛永寺の門である「清水口」に因んで付けられていた清水坂の名は、暗闇坂とも呼ばれるようになった。

寛永寺が上野戦争で壊滅的な状況になって以降は、護国院の背後にあった墓地が盛り土され、東京芸術大学、上野高校といった施設となる。現在は再び清水坂となっているが、歴史的な記憶は近代の煉瓦建築だけで、「江戸情緒」「由緒」が弱い。タモリさんの乗りの悪さがこのあたりにあるのかもしれない。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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