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まちと住まいの空間 第23回 大名屋敷地から町人地へ東京の高層ビルの足跡(日本橋・銀座編)(2/2ページ)

岡本哲志岡本哲志

2020/04/30

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超高層ビルにノーと言った銀座、そして木挽町地区の超高層ビル化

銀座はどうか。2003年夏、松坂屋を中心とした銀座六丁目の再開発により、170mの超高層ビルを建設する構想が新聞などで公表された。銀座の都市空間の将来はどうなるのか、どうすべきなのか。ここから、銀座の人たちを中心に議論が巻き起こり、銀座は100mをゆうに超える超高層建築をノーといった。その結果、銀座地区では銀座通り沿いの建物高さ56mが上限となる。その第1号として、東京銀座資生堂ビルが建てられた(写真4)。

写真4、東京銀座資生堂ビル

その後、地区計画レベルの銀座ルールが法制化され、例外を許さない法的環境が整う。スカイツリーの展望台から銀座の方向を眺めると、超高層ビルに囲まれ銀座が窪んで見える。これが江戸の街区を継承し続ける「銀座らしさ」の表現である。しかしながら、銀座地区にも56mを超えるビルがすでにあった。バブル景気が終りに近づくころ、銀座地区内の銀座三丁目に高さ81mの王子製紙(現・王子ホールディングス)本社ビルが建つ(写真5)。

写真5、王子製紙本社ビル(2004年に帝国ホテル客室から)

平成3(1991)年のことだった。この建物は、公共性の高い広場的な公開空地を設けることにより、建物の高層化を図ったものだ。その後、バブルが崩壊するとともに、銀座には高層建築がしばらく建たなかった。2000年代に入り、木挽町地区で高層化の計画が進行する。平成15(2003)年には木挽町地区に銀座タワービル(95m)が建つ。さらに、銀座三井ビルディング(三井ガーデンホテル銀座プレミア、建物高さ108m、最後部高さ121m)が2004年に100mを超える超高層ビルとして銀座にはじめて誕生した(写真6)。

写真6、銀座三井ビルディング

銀座のなかでも木挽町地区といわれる、昭和通り沿いである。ここはもともと町人地だったところだ。いくら44mの広幅員の昭和通りに面しているとはいえ、超高層ビルが武家地だけに建てられてきた文脈がここで崩れる。

2013年2月、木挽町地区に竣工した歌舞伎座タワー(建物高さ138m、最後部高さ146m)は歌舞伎座の復元とセットに建てられた(写真7)。その土地は江戸時代大名屋敷(熊本藩細川家拝領屋敷)であり、町人地に建った銀座三井ビルディングとは意味合いを異にする。歌舞伎座の建て替えに伴い、超高層ビルを容認する要件として、木挽町地区では文化貢献を強く謳うようになる。56mを最高高さとした銀座地区とは異なる超高層ビル化の道筋を示すことになった。

写真7、歌舞伎座と歌舞伎座タワー

江戸の町人地をベースにした現代の日本橋、銀座を見てきたが、武家地だった丸の内、スーパースケールの街区であるニューヨークとは都市空間のあり方が異なる。日本橋、銀座における超高層ビルの建設を含めた都市空間のあり方は、個々の場所の都市構造を踏まえた上で再構築する必要があろう。街に超高層ビルが必要なのかも含めて。

 

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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